黒田清さんを悼む
差別に怒りのペン
社会派ジャーナリストで、元読売新聞記者の黒田清氏が23日、すい臓がんのため大阪府摂津市の病院で死去した。69歳。
弱者への限りない共感と反骨精神。威張る者、傲慢な権力、差別のシステムに容赦ない怒りのペンを向けた。それが骨太のジャーナリスト活動を貫いた。 かつて、読売新聞大阪社会部長として100人近い部下を率いた。「黒田軍団」と呼ばれたその時代に、戦争や差別反対の粘り強いキャンペーンを続け、当時、軍拡路線を鮮明にした中曽根「政権」や新聞社の上層部と対立した。1987年、退社し、「黒田ジャーナル」を創設。以来読者との濃やかな交流を柱にしたミニコミ紙「窓友新聞」を発行してきた。黒田さんの口癖はこうだった。 「世の中には弱者がいっぱい。幸せな人には、少しでも長く幸せが続くように、不幸な人には少しでも幸せに近づけるようにしてあげたい」 日朝国交正常化の促進や朝鮮学校の処遇改善などにあらゆる支援を惜しまなかった。 2年前、すい臓がんを患い、大手術に耐えて復帰してすぐ、東京で開かれた「日本の戦時下での強制連行に関する東京シンポジウム」にパネラーとして参加。右傾化する日本の状況の危険性について語り、「エセ学者、エセ漫画家、エセ政治家らの主張がアメーバーのように日本の隅々まで浸透している」と警鐘を鳴らした。 「新たな戦争をしかけようとしている勢力と闘わずして平和を獲得することはできない」と力強く訴えた姿が今も目に焼きついている。また、昨夏、大阪朝高がインターハイ出場を決めた時、「長い間の差別に負けないで、よくチャンスをものにしてくれた」とわが事のようにその快挙を喜んだ。 柔和な笑顔の中にあった気骨ぶりが忘れられない。(粉) |