語り継ごう、20世紀の物語

今日まで30年間、午前1時に起きて働きづめの日々

趙善孝さん(78)


戦後、長男背負ってヤミの買い出しに
家族の支えで様々な商売に挑戦

 早朝から買い物客でにぎわう長門市場は下関のメインストリート・グリーンモール商店街の裏手通りにある。

 趙善孝(78)さんは市場の一角で、約30年の間、露店の八百屋を営んできた。今朝仕入れたばかりのトマトやキュウリ、生花が並ぶ2畳ばかりの小さな店だ。

 関釜フェリーターミナルから徒歩15分ほどの市場とあって、ポタリチャンサ(運び屋さん)の同胞が莞島産の岩海苔や即席麺の箱をいくつも抱えて、ひんぱんに行き来する。

 店先で、顔なじみの南朝鮮から来た同胞と顔が会うと互いに、故郷のなまり言葉で軽口をたたきあうのがあいさつだ。

 趙さんは店のテントに紐でラジオを吊し「ニュースを聞かんと国際情勢が分からん」といつも聞いているそうだ。

 名前を漢字で問うと、「チョナラ チョッチャ」という答え。聞き手の方が迷っていると、「えいっ」ともどかしそうに手元のマジックを取り出し、手提げ袋の裏にさっと「趙善孝」と達者な筆跡で書いてみせてくれた。
 趙さんは一九二一年、全羅南道麗水郡沼羅面で生まれた。日本の植民地支配下で、両親は細々と農業を営み、なんとか家族が食べていける暮らしぶりだった。

 封建思想の男尊女卑が当たり前だった時代でも、6人兄弟、男女とも皆学校に通った。裕福な家庭で育った母は、子供を学校に通わせないのは恥という考えを持つ進歩的な人であった。近辺の3つの村でも学校に通うことができた唯一の家庭であった。

 19歳の時、すでに両親と共に渡日していた厳台玉氏と結婚。日本に渡り、夫の両親と共に下関で暮らした。しゅうとは土方仕事をし、夫は山口中学(現在は山口高校)を卒業後、山陽電鉄の路面電車の車掌になった。暮らしには余裕がなく、空襲が激しくなってもお金がないので疎開することもできなかった。

 解放を迎え、関釜連絡船の波止場のある下関は我先にと故郷に帰る同胞であふれ返っていた。しかし、一家には船賃もなく帰国の夢も叶わなかった。

 植民地支配から逃れ、「もう日本人に馬鹿にされることはない」と喜んだのも束の間、趙さん一家は今度は新たな祖国分断の不幸の渦の中に巻き込まれていった。

 解放後、結成された朝聯組織は朝鮮学校の設立や下関に集まった帰国同胞の便宜を図るなどの活動を行っていた。

 ところが、1949年8月、朝聯壊滅を企図し、朝聯と民団の同胞たちの対立をあおった騒じょう事件、「下関事件」が引き起こされ、朝聯傘下の活動家および同胞ら約200人が逮捕された。

 全く事件に無関係であった夫の厳さんも「騒動を扇動した」というぬれぎぬをきせられ、懲役5年の実刑判決を受け、実質3年間の服役を強いられた。

 戦後は長男を背負ってのヤミの買い出しに追われ、食べるのが精一杯の暮らしだったが、今度は夫の逮捕で、一家の収入もなくなり、たちまち生活は困窮していった。

 「あの頃の苦しさは言葉にできない。生きていくために、ただひたすら頑張った」

 生活の糧にとドブロク作りを始めたが、税務署に摘発されることもしょっちゅうで、乳飲み子のいる自分の身代わりにしゅうとが2、3日警察署に留置されることもあった。夫は釈放後、会社に復職したが、今度は労働組合の副委員長を務めていたことからレッドパージ(共産主義者の公職からの追放。1950年、GHQの指令で実施された)にあい、解雇されてしまった。その後、朝鮮総聯の活動家になったが、当初は無給が続いた。

 夫の収入は当てにならず、「金を借りて商売でもしてみたら」という親戚のアドバイスを受け、10万円の金を借りて家を買い、果物屋を始めたが、いっこうに儲からなかった。今度は靴屋に転業したが、これも儲からず、在庫をいっぱい抱えてしまった。こんどは家族らが話し合い、長門市場で露店の八百屋をしようということになった。

 しかし、これまでも苦しい生活を送ってきた趙さんであったが、大切に育てられた幼少時代、当時では珍しく学問を身につけていたプライドから「両班の娘が道端で商売なんかできん」とはねのけた。すると、そんな母に代わって、娘たちが店の手伝いを始めた。そんな娘の姿に学ぶように趙さんが商いをして30年が経った。組織の活動に専念する夫を敬い、家計を自らが支えてきたのも、そのプライドの所以かもしれない。

 店の仕入れは午前1時すぎから。仕入れた品物をいったん店先に降ろして2〜3時間休憩すると、早朝から夕方まで商売を続ける。

 夫が亡き後、仕入れを手伝う息子の厳潤徹氏(45)からは「オモニは毎日20時間も働いているから、日本の労働基準法に違反しているからね」とからかわれたと話す。

 先日、テレビで南北首脳が手を取り合い「我らの願い」を歌う場面を見た時、感激で涙が溢れた。

 すでに子供たちも独立し、隠居しても良いのであろうが、まだまだ商売は続けるつもり。間近に迫った統一の日を現役で迎えたいと気力はますます充実している。(静)

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