宇都宮徳馬氏を悼む
朝鮮との深い縁
元参議院議員の宇都宮徳馬氏が1日、肺炎のため神奈川県相模原市の病院で死去した。93歳だった。1952年衆院東京2区から初当選。以降、連続10回当選した。76年、ロッキード事件と金大中事件の処理を批判して、辞職。80年から参院に転じ、92年、政界を引退。
「米国依存が習い性」となった日本の戦後政界にあって、一貫して、朝鮮民主主義人民共和国との関係改善に取り組んだ。64年以来、たびたび訪朝し、金日成主席の知己を得た。その後も80年代末まで4回にわたり会見し、親交を深めた。日朝議連(76年)、核軍縮を求める22人委員会(84年)などの創設にも尽くし、朝鮮との友好と平和の実現にも心血を注いだ。 清廉潔白な政治家として、多くの人々に尊敬を受けた稀有な人であった。 宇都宮氏の生涯は、朝鮮との深い縁があった。19年の3.1独立運動の時、父の太郎陸軍大将は朝鮮司令官だった。「弾圧の責任を免れることはできません。しかし、父は事件の犠牲者を少なくするため強硬派の反対を排して兵士に実弾の発射を禁止するなど心肝を砕いたのも事実です」と語っていた。 父の死の翌23年、関東大震災でいまわしい朝鮮人大虐殺事件が起きた。当時、徳馬氏は陸軍幼年学校在籍中。「そのショックが影響して軍人の学校をやめた」と記者に語ったことがある。これらの体験が戦後、宇都宮氏を朝鮮問題に向かわせた。 「私が政治家となって朝鮮問題に異常な関心をもち、南北分断という不幸な状況に終止符をうって、統一した朝鮮と日本とが仲良く心から助け合うことを夢見ているのも、父の志をついでいるともいえましょう。また、日本の軍司令官として、心ならずも朝鮮の民衆を痛めつけた父の償いをしようという潜在意識があるのかもしれない」と話していた。 金日成主席の印象について「第3世界の英雄」だと語り、その主席が「あなたは私の友人であり、親友である」と呼んでくれた秘話を話しながら、「まことに光栄であり、父の墓前に報告できる」と心から喜んでいた笑顔が忘れられない。 つねに少数派として身を置き、高い志を持ち、どんな圧力にも屈せぬ見事な生涯を貫いた。心から冥福を祈りたい。 (粉) |