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平  壌

昔日の平壌の風景


明の使者も圧倒された「天下第一江山」、427年、高句麗の都に

 世界の耳目を集めた、南北の歴史的な対面と最高位級会談の舞台となった平壌。その歴史は朝鮮民族の最初の国家、古朝鮮にまでさかのぼる。

 中国・遼東地方を中心に栄えた古朝鮮は紀元前10世紀半ば、平壌地方に進出。同3〜2世紀頃に中心地の1つとして整備した。これが始まりである。

 平壌が繁栄を遂げるのは、高句麗時代に入ってからである。1世紀、当時の中心地だった鴨緑江流域から、土地が肥え実りの豊かな南方地方への進出をめざした高句麗は、2世紀末から3世紀初にかけて平壌を地方行政区域に編入した。

 246年、都の集安が侵攻された時、その復旧のために一時、平壌に遷都した。翌年に城郭を築き、王室の霊廟や官庁を移した。413年からは本格的な国都建設が行われ、王宮の安鶴宮などを造営し427年に正式に集安から遷都した。6世紀半ばからは首都の防衛を固めるために、北、内、中、外の4つの城からなる平壌城を築いた。城内には3キロの運河が引かれ、大同江には複数の木橋が架けられた。

 918年に王建が高麗を樹立した後も、国都の開京(現在の開城)と同じく官庁が置かれ、西京(西の京)と呼ばれた。高麗滅亡後、李朝時代に至っても政治、経済、文化上の重要都市として発展した。

 平壌は古くから、名将と名文家を輩出したことで有名である。前者の例としては、豊臣秀吉軍の侵略時に、キーセン(妓生)の桂月香とはかって敵将・小西飛騨守を殺害し反撃の転機を作った金応瑞将軍がいる。

 名文家が数多く生まれたゆえんとしては、風光明媚な景観が上げられる。明の使者として平壌を訪れた朱之蕃(書画家)は、練光亭に登りその景観に圧倒されて「天下第一江山」と表現したことは有名である。

 また、「馬灘の雪どけ」「乙密台の春」「浮碧楼の月」「大同江の舟遊び」「普通江の送別」「竜岳山の森」「永明寺のあかね色」「愛蓮堂の雨景」は平壌八景と称された。

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