近代朝鮮の開拓者/文化人(7)
崔南善
(チェ ナムソン)
崔南善(1890〜1957年)17歳で早稲田大学に入学、退学した後に、印刷機械を購入して、出版社「新文館」を創立する。新雑誌を創刊し、新文学運動と古典の復刊に尽力し、かつ3.1独立宣言書にも執筆するが、次第に日帝に妥協、民衆の批判を受ける。 |
六堂・崔南善は身分としては「中人」の出身である。中人は、李朝時代に両班の下、平民の上に位置し、漢医師、通訳官、収税官、天文台の職員など、ある特定の技術をもって王朝に仕え、かたわら清国との個人的な貿易も行って富裕な家が多かった。 彼の父も観象監(天文・測候所)の技監として勤めながら、家では漢薬房をしていた。1904年、政府は高官の子孫を中心として50人の青年を新学問を学ばせるため日本に留学させるが、崔南善もそこに選ばれて東京の府立第1中学校に入学する。しかし、すぐ退学し、2年後には自費で早稲田大学高等師範部地理歴史科に入学する。これも3ヵ月後に中退し、新学問に関する多くの書籍と新しい印刷機械を購入して帰国するのであった。 国を自主独立の国家とするためには、国民を新しい文化で啓もうせねばならず、そのための機材が必要だとの信念からであった。 それ以後、彼のめざましい活動が始まる。1907年には「新文館」という出版社を作り、翌年からわが国最初の総合雑誌「少年」を刊行し、自ら若々しい感覚の詩を発表して、多くの読者に新しい時代の到来を実感させた。また安昌浩と協力して青年学友会を結成、実践による青年運動をおし進めた。 さらに、朝鮮光文会を結成し、民族の貴重な文化遺産である古典の復刊と解説によって民族精神の発揚をはかった。 11年、「少年」が朝鮮総督府の命令により廃刊されるや、次々と「赤いチョゴリ」、「新星」、「青春」などの雑誌を刊行する。 その後、2年6ヵ月の懲役を終えて出獄してからは、主として著述活動に集中する。時調集「百八煩悩」、「檀君論」、「尋春巡礼」、「白頭山覲参記」、「金剛礼讃」、「朝鮮歴史」などの名作が生まれた。 しかし、彼は次第に総督府に取り込まれて行く。「朝鮮史編修会」委員、39年には、カイライ満州国の建国大学教授などの御用学者へと転落していった。 有名な話がある。その頃、彼はソウルの街で、ばったり韓龍雲に出会った。彼は、「しばらくです、韓先生。崔南善です」とあいさつした。すると韓龍雲は、「崔南善? 彼は何年も前に死んでしまったよ」と白い眼をして去ったという。 (金哲央、朝鮮大学校講師) |