開かれた扉 南北新時代(2)
双方が確認した「自主統一」
米軍撤退への現実的な接近
南北の最高指導者が会うためには、それだけの環境と条件が整わなければならない。すでに合意している自主、平和統一、民族大団結の祖国統一3大原則を実践に移すことが最高位級会談の目的だからだ。 93年のチャンス 実は7年前、最高位級会談のチャンスがあった。当時の金泳三大統領が就任辞(2月)で、「いかなる同盟国も民族には及ばない」とのべ、統一問題を自主的に解決する意思を表明したのだ。これに対して金日成主席は、統一のためなら過去を問わないという主旨の民族大団結10大綱領を発表(4月)。会談の環境は整いつつあった。 ところが6月に朝米共同声明が発表された直後、金泳三は「(米国は)これ以上、譲歩すべきではない」と言って、南北関係を再び対決状態へと押しやった。その後、金日成主席とカーター米元大統領との会見によって、朝鮮半島の危機が回避され、再び最高位級会談が日程に上ったが、金日成主席の逝去によって延期された。 97年に喪が明けても、対話の相手に対して弔意表明はおろか、敵意をむき出しにした金泳三には対話の資格がなかった。 「政権の平和的交代」で金大中政権が登場したが、今度は南朝鮮が「IMF(国際通貨基金)事態」と呼ばれる経済危機に陥り、対話に力を注ぐ余力がなかった。 76年から始まったこの演習は、南朝鮮と米軍が北への攻撃を想定して毎年行っていた西側最大の核戦争演習で、こうした演習が続けられる限り、南北の和解は望むべくもなかった。それを当時の盧泰愚大統領が決断して、中止したのだ。 しかし、合意書が採択された直後の92年1月、ソウルを訪れたブッシュ米大統領は、露骨に不快感を表した。「南北が和解するのは良い。しかし、あくまでも米国のイニシアチブのもとに」というのが、その理由だった。 この恫喝(どうかつ)に萎縮した南朝鮮当局は、その後の対話で、核施設に対する査察など米国の要求を代弁し、最終的に南北高位級会談は、93年のチーム・スピリット再開によって決裂に至った。 72年の7.4共同声明のときも、金日成主席が最高位級会談の開催を呼びかけたが、米国は「力の立場に立った対話」を提唱し、朝鮮半島情勢を緊張状態へと追いやった。 今回、南北の首脳が共同宣言の第1項目で「北と南は、国の統一問題を、その主人であるわが民族同士が互いに力を合わせて自主的に解決することにした」と高らかにうたったのは、妥協の産物などでは決してない。 米国が、自国の利益を犠牲にして同盟国のために働いたことは一度もなく、それは分断の歴史の教訓でもある。「統一問題の自主的解決」はその歴史的教訓を踏まえたものと言える。 そして、統一問題の自主的解決と南朝鮮駐屯米軍の撤退は、不可分の関係にある。なぜなら、米国は朝鮮問題に関与することの意思表示として米軍を駐屯させてきたからだ。 金日成主席は亡くなる約3ヵ月前の94年4月21日、在米ジャーナリストの文明子氏との会見で「われわれは連邦制統一を主張するが、ただちに米軍を追い出そうというのではありません。(略)今後、北と南が和解し、軍隊を減らせば、それに合わせて南朝鮮に駐屯している米軍も段階的に撤収するべきです」と、米軍の体面が立ち、かつ現実に撤退論議が可能となる道を開いた。 一方、南北共同宣言の発表を受けて米上院外交委員長のジェシー・ヘルムズ共和党議員は「もし南北朝鮮の関係改善が真しなものなら、米国は駐韓米軍の撤収計画を立てなければならない」と述べたが、これは受け皿ができつつあることを示唆するものだ。 昨秋、米国の対朝鮮政策を検討してきたペリー元国防長官は、朝鮮は崩壊しないと明言し、関係改善の姿勢を明確にした。これは駐屯米軍の位置付けそのものが変化したことを意味している。朝鮮民族の自主的努力が、それを可能にしたのだ。 (元英哲記者) |