新世紀へ向けて「希望=思考」の転換を――朴才暎


民族教育の中の情熱と希望

  昨年、大阪で 「全国オモニ大会」という催しがあった。この席上で1人のオモニは、各地のウリ・ハッキョにおける生徒数の減少を憂えた後、昨年学校から父母への「お知らせ」などの印刷物に日本語が多く交じり、これでは日本の学校のようではないか、とやむにやまれぬ思いを訴えた。彼女の意見はもっともなだけでなく、普段私の周りでさえもささやかれている憂いである。にもかかわらず、その時の彼女の発言が心に残ったのは、それを聞いた私自身の反応が彼女とは反対の方向=希望を心に見いだそうとしたからであった。

  少し前までの私ならば、考え方のパターンはその人とほぼ同じであったろうと思う。「嘆く」「恨む」はウリ民族のおハコのようなもの。しかし、嘆いたままで過ごしたいか、希望に向かって生きたいかといえば、むろん後者であろう。泣いて過ごさぬための考え方を、図らずも私は女性学から学び、さらに、図らずもソルーション・フォーカスト・アプローチ(解決思考)という心理学の家族療法の手法の1つから啓示を得た。単純なプラス思考とは一線を画す。「どうしたいかに焦点を当てて考える」ことを「力」にしてゆく方法である。

  少子化・過疎化は今に始まったことではなく、日本の公立校、そしてウリ・ハッキョで生徒数が減ってゆくのは十分予想されたことである。それを嘆けば、意気消沈してゆく。しかし、このような中で、学校側が生徒に渡す「お知らせ」を朝鮮語ではなく日本語で出さざるを得ないという事実は、実は父母の中に、自らは朝鮮語の読み書きができないけれども、子供にだけは民族教育を施そうという若い人々が少なからずいるということである。近接の日本の学校に入れるほうが通学にも経済的にもいくらか楽であるにもかかわらず、そのような中であえて子供に民族教育を受けさせたいと考える父母の情熱と希望があるのである。このことを吉兆ととらえこそすれ、嘆く必要がどこにあろう。

 生徒数減少という事象はむしろ残念ながらウリ・ハッキョ卒業生の中の少なからぬ人々が、自分の子供はウリ・ハッキョに入れないという現況にもあるという点を認め、冷静にその理由を分析し、父母のニーズを考慮し教育の在り方を改善するという方向にこそ、解決の希望はあろう。

世代交替、思考の変化を直視

 最近亡くなった遠縁のハラボジの葬式に参加して、その様変わりに驚いた。つい五年ほど前の彼の妻の葬式の時には、遺族は泣き叫び嘆き悲しみ、老いたハルモニたちは天を仰ぎ、地を叩き…とまではゆかなくとも死者を激しく追慕したように思うが、わずかの間にもはやあの時その場に濃密な情緒を醸していた「老いたハルモニ」たちがいないのである。

 思想や情緒や感覚は、世代や時代と密接な関係にある。まさに「旧い情緒」は、「旧い情緒の持ち主の死」と共に去っていったかのようである。このことに、たとえ感慨と郷愁を覚えたとしても、すでに世代の交替は否応もなく、「感じ方の違い」は、問題に対する思考の変化を求めて止まない。私自身の感覚そのものが、もはや「老人の死」、あるいは「ある時代の死」そのものに重みを失い、覚めた静けさである。

 何事も旧ければよいというものでもない。ある「情緒」や「思考法」が未来を暗くしているならば、その方法は採用しない方がよい。いつの世も若い人々のやる気は「希望」によってもたらされる。そして「希望」は、やる気次第で世の中はよい方向へと変わるのだ、という事実の満足をもたらしてくれる。

 だからこそ、そこに次の世代を励まし、世代交替や思考の変化を自明のこととして見守る、老いた人々の温かく成熟した眼差しがなければ、全ては虚しいのだ。(ましてや儒教の社会においては)実はその社会の老人の態度こそが、若者の未来を暗示しているのである。(フェミニスト・カウンセラー)

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