私の会った人

中村仁さん


 松尾芭蕉もこよなく愛した最上路で知られる奥羽山脈の山懐に抱かれた山形県最上町で町長をしている。77歳。4年前の夏、共和国の旅を満喫して帰ってきた。

 54年ぶりの朝鮮再訪だった。日本敗戦前の1940年、まだ10代の頃、「センテツ」と聞いて入社試験を受けたら「仙台」ではなく朝鮮鉄道だったというエピソードを持つ。それから5年間、朝鮮北部の吉州、羅南、清津、恵山などで勤務した。「同僚の朝鮮人たちはみな頭脳明晰でいい方たちだった。しかし、大学出の素晴らしい秀才でも朝鮮人は助役試験すら受けられなかった」と遠い記憶を手繰り寄せた。朝鮮人の食卓には欠かせないメンタイ(スケソウダラ)をかご1杯持った朝鮮人乗客を、日本人警官が臭いと言って、列車から引きずり下ろす場面を目撃したのもその頃のことだ。

 だが、50数年たっても朝鮮を忘れ難いものにしているのは、当時、腸チフスにかかった中村さんを献身的な看護によって救った朝鮮人看護婦への感謝の気持ちである。「同僚の30人が亡くなったが、私1人、奇跡的に助かりました。お陰で今もこうやって元気に働いています」。

 42年に日本に帰り、そのまま最上町役場に入り、収入役を6期務め、町長は8期目。

 朝鮮を語る言葉には行政のプロとしての濃やかな目が生きている。人々の勤勉さと指導者の理念と情熱に感嘆する。とりわけゴミのない街の美観が印象的だったと語った。(粉)                                                                                                        

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