投 稿
母校愛する思いが一つに
金 直 樹
私たち滋賀朝鮮初中級学校25期(1986年卒)卒業生は、12年前から、毎年夏に欠かさず同窓会を開いている。当初は、学校生活の思い出、卒業後の社会人生活や学生生活、恋愛などの話で盛り上がっていた。それが、母校の発展について熱く語り合う場に変わり始めたのは、6年前のことである。
きっかけは、毎年秋に行われる運動会を成功させるため、賛助広告を出そうとの私の提案。自主運営を余儀なくされている母校の運営を少しでも助けたいという気持ちからだった。 しかし最初、その提案を素直に受け入れようとする同級生は1人もいなかった。「私たちの期だけなぜ出すの」「経済的に厳しい」などという意見が大半を占めた。だが、私は納得がいかなかった。なぜなら、自分たちが学生時代に行った運動会が成功したのも、同胞学父母や卒業生たちのバックアップがあったからだ。 そこで私は、「自分たちが在学中に運動会を成功させられたのも、卒業生たちの協力があったからではないか」、「彼らの惜しみない協力があるからこそ、学校は今も存在する」、「これからは自分たちが学校のために何かをする番やないか」などと呼びかけた。 するとある同級生が、25期の名で広告を出すなら協力しようと応えてくれた。以来、25期の名で運動会のパンフレットに広告が出るようになった。その2年後、今度は「広告は25期名で出るのに、お金を出すのは1人というのはおかしい」という話を耳にした。そこでその年からは、同窓会の参加費の一部と、その場で集めた賛助金を広告費にあてるようにした。 そして昨年の同窓会では、学校創立40周年(4月24日)に際し、自分たちにできることは何かないかという提案が浮上した。賛同者も多かったが、結論的には誰が責任を持って実現させるのかという話になった。結果的には、「言い出しっぺ」ということで、私が受け持つことになった。さらに、中級部の時に日本学校から編入してきた同級生が、是非手伝いたいと名乗り出てくれた。民族の心を植え付けてくれた母校に、少しでも恩返しができたらとの思いが彼にはあった。 翌日、学校を訪ねると、学校新聞「学びの場」を作成する際、デジタルカメラで写真を編集できればとの校長先生の申し出があった。 早速、手紙と電話で同級生全員にその旨を伝えた。東京から一時帰郷し、協力したいので家に来てくれと電話をくれた男性の同級生、日本人と結婚した女性の同級生など、全員が賛同してくれた。また意見が対立してケンカになりかけた時もあったが、わずかだが足しになればと、後でお金を送ってくれた人もいた。 こうして記念すべき4月24日、デジタルカメラは母校に寄贈された。このカメラで運動会も撮るのだろう。また同級生の子供を撮る日も、そう遠くはない。 一方、運動会のパンフレットの広告は、われわれの広告が端緒となり、今では約10期分の卒業生たちの広告が載るようになった。同時に、学校を愛する運動は、ほかの期にも知れわたり、学校創立40周年を輝かせるための大衆運動として広がろうとしている。(滋賀初中25期卒業生) |