近代朝鮮の開拓者/文化人(6

文一平(ムン イピョン) 


 
人・ 物・ 紹・ 介

 文一平(1888〜1939年)義州の生まれ。18歳で髪を切り日本に留学し、1912年に上海で活動をするが帰国する。その後に、歴史学研究を深めつつ、教育や言論界などで文筆活動を行う一方、ウリナラの政治史や外交史、文化史で新分野を開拓した。 

歴史学、言論界に新分野/高潔な人格、自立の道探る

  湖岩・文一平は李朝末、1888年に生まれ、1939年に52歳で死を迎えるまで、民族主義的な立場で歴史学と教育事業、言論界に大きな足跡を残した「廉潔高尚な人格者」(「湖岩全集」第3巻のあとがき、1939年)であった。 

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 彼は、平安北道義州の生まれ。16歳まで故郷で漢学を習った。ハングルは、12歳で結婚した3歳年上の妻から習った。

 1905年、18歳になった彼は、新しい学問を学ばねば、自分にも民族にも、希望はないと思い定め、大きな決意のもとに断髪して、東京に留学するのである。

 まず日本語を習い、明治学院中学部の3学年に編入した。本郷の日勝館とか玉律館という下宿屋で生活するのであるが、この時、洪命憙や李光洙など、後にわが国の文学界に大きな影響を及ぼす人たちと親しくなった。

 明治学院中学部を卒業するとすぐ帰国。安昌浩が建てた大成学校の教師となり、後には故郷義州の養実学校に移っている。

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 1910年、亡国の悲運に出会うや、さらに深い学問を目指して早稲田大学高等予科に入学、翌年に同大学政治学部へ進み、政治学や西洋史を学び、そこで有名な小説家・坪内逍遙(つぼうち・しょうよう、1859〜1935年)の文学講義を熱心に聞いた。この頃、安在鴻や金性洙も早稲田にいて親しくなった。

 新文化を友人たちと学ぶ楽しさとともに、常に日本の刑事に監視され検挙される苦しみを味わった。

 彼は、12年、日本での生活を中断し、新しい建国の意気に燃える中国に活動の場を求めて上海に渡る。そこには、すでに金奎植、申采浩、洪命憙、鄭寅普などの多くの亡命人士たちが活動していた。

 彼はまず中国の新聞社「大共和報」に勤め、金玉均が暗殺された現場である旅館「東和洋行」などを訪ねたりもした。

 しかし、彼は亡命生活より不自由であっても故国に帰り、将来の独立に備えて民族の覚醒のため努力すべきでないかと考える。



 帰国後、彼は朝鮮史の研究を深めながら、教育界と言論界のため、心血を注ぎ多彩な活動を展開する。培材や松都などの中学の教師、朝鮮日報への寄稿や編集の革新を行い、鋭い史論や論説、あるいはわが国の外交史、政治史、文化史、特に歴史上の反逆者を紹介する記事などは、「湖岩全集」の第三巻にまとめられて人々に広く愛読された。

 彼は、その謙虚で高潔な性格によって人々から尊敬を受けながらも、不幸にも病のため52歳でこの世を去った。 (金哲央、朝鮮大学校講師)

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