ウーマン、女の仕事

オモニの背を見て、自立できる職業選んだ
産婦人科医  朴美子さん(54)


 パク・ミジャ 1946年、滋賀県生まれ。岐阜大学医学部卒。81年、小牧市に「ミナミ産婦人科」を開業。夫は名古屋市第一日赤病院の内科医を経て、現在「ミナミ産婦人科」理事長。在日本朝鮮人医学協会所属。

お産にはマニュアルは通じない。柔軟性と自然体が大切


 少女時代、「悩める人を助けたい」というシュバイツァーの言葉に触れて、医学を志す。そして働くオモニの背を見ながら、女性が自立して、男女が対等に働ける職業を選んだ。

 「でも、医学部を出た頃は、まさか自分が産婦人科医になろうとは思ってもいませんでした」

 1970年、大学を卒業したちょうどその年に、偶然、東京・上野で開かれていた「朝鮮民主主義人民共和国商品展覧会」の医務室に勤務することになった。そこには、後の人生に強い影響を受けた精神科医・李海徹さんとの運命的なで出会いが待ち受けていた。

 「朝鮮女性は儒教の影響下でしゅう恥心が強く、体に異常を感じても病院にいかない人が多い。手遅れになって子宮ガンで亡くなるケースもある。同胞女性らのためにも同性の産婦人科医が是非必要だ」との李さんの言葉は進路を決めかねていた朴さんの心を揺ぶった。

 その後、李さんの紹介で順天堂大学・産婦人科学教室に入局。勤務医として順風満帆の道を歩み始めた。結婚して2人の子の母となってから、月に何度もある当直と子育ての両立は無理と考え、愛知県小牧市内に産婦人科医院を開業した。

 「当直のない勤務医の道もあったが、医者として、お産も手術もやめたくなかった。学生時代にはお産なんて、グロテスクなんて思っていたのに…」

 それから19年。医師・オモニ・経営者として目まぐるしい日々を送る。「職員は20人ほど。小さな町工場の社長のような日常かも知れません」と笑う。同業の夫も多忙の身。「育児、家事の分担を最初からしっかりやっておけば良かった」と悔やむことも。

 この仕事に就いて良かったと思う瞬間は、「異常分娩のため、そのままにしておくと不幸な結果を招いたかも知れないお産に手を貸して、小さな命と母体を救った時」。何にも代え難い充実感。どんな苦労も吹き飛ぶ一瞬だ。都会ではない、農村地帯の中規模の産婦人科。人々の長年にわたるあつい信頼を受けての医療活動。取り上げた赤ちゃんは1万人を越す。

 「李先生がおっしゃった同胞女性らの命を救う医療にどれだけ貢献できたかは、分かりません。婦人病で積極的に病院にかかる、という慣習は東洋にはまだ根づいていない。世代や地域差もかなりありますが」。

 女性を因習から解放し、その命の尊厳を守るには、学校や社会での教育が大切だ。「この頃はお産の雑誌も数限りなく出版され、みんなが色々な知識を詰め込んでいる。でも、それだけではダメなんです。お産にはマニュアルが通じない。正確な知識と共に、柔軟性と自然体が一番です」と語る。

 日本に渡ってきて一生懸命働いて子供6人を育てた1世のオモニを心から尊敬する。「我が子の教科書を開いて字を覚えていた姿を思い出します。不眠不休で働き、さらに何よりも学ぶことが好きだった。人間として女性として本当に頭が下がります」。

 障害を持つ長女と医大に通う長男がいる。「がむしゃらに生きてきた。でも家族あっての仕事です。長女のためにも健康で長生きしなければ」と語った。 (朴日粉記者)

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