わがまち・ウリトンネ(75)
連載を終えて(下)
高齢者過疎化、失われていく姿 21世紀、精神どう残すか 1960年代に入ってから、トンネの同胞数が減少し始めた。 59年12月に始まった帰国事業にともない、多くが朝鮮に帰っていったこと、商売が軌道に乗り始め多少余裕のできた人々がよそに引っ越していったこと――などがその主な理由に挙げられる。 典型的なのが東京・枝川。朝鮮人を隔離する目的で作られた人工的なトンネであることから、住人のほとんどが同胞であった。だが、帰国船の往来が盛んだった60年代前半を境に、日本人の住人が増える。 国に際し、住んでいた家を日本人に譲っていく人がいたからだ。この頃から朝鮮人と日本人の割合が半々ぐらいになっていったという。 地域の特徴、置かれている環境によって事情は少しずつ異なるが、帰国者の増加にともない、日本人の数が増えていったのは共通している。 だからといって、同胞たちのパワーが衰えることはなかった。何かあれば同胞同士集まり相談し、休日ともなれば、女性たちはチマ・チョゴリを着て手を取り合って同胞の集いに出かけた。 取材した全員が、「あの頃は同胞と会わない日は、何か落ち着かなかった」と語っていた。集まり語り合うのが楽しかったという。 ◇ ◇ だが、80年代に入ると、そういった雰囲気は薄れていった。 最大の理由としては、前述のように生活に余裕のできた人々が他の地域に移って行ったことが挙げられる。今ではトンネの形自体、ほとんどなくなり、今残っているのは、大阪・猪飼野、神戸・長田、東京・三河島、足立、神奈川・川崎、山口・下関など数えるほどしかない。 そして、若い人たちの流出、高齢化と過疎化。広島・白島、京都・東九条、東京・馬込、名古屋・弥次ヱ、宮城・多賀城、塩竃などが抱える共通した問題点だ。 朝鮮解放からすでに55五年。トンネの歴史を知る1世の数も年々少なくなっている。形としてのトンネもどんどん失われている。そんな中、21世紀に向けてその精神をどう残していけるのか、本連載がそのための一助になれたとすれば幸いだ。 全国で貴重な証言をいただいた方々に、改めて謝意を表したい。
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