わがまち・ウリトンネ(74)

連載を終えて (中)


苦しい生活、結婚式も手料理で質素に
盛んだったどぶろく造り


 本連載では、トンネの同胞たちの生活をできるだけ詳しく伝えるよう心がけた。

 朝鮮解放(1945年8月15日)後、民族差別やたび重なる弾圧とたたかいながら、1、2世たちがどのようにしていまの在日同胞社会を築きあげてきたのか。その事実を知らない若い世代に伝えることが大切だと考えたからだ。

 17ヵ所を取材する過程で、解放直後から60年代始めにかけて、同胞たちの生活がいかに大変なものであったかを多くの人から聞かされた。住まいも職もなく、その日その日を生きていくのに、みな精一杯だったという。まして幼な子を抱えている人たちなどは、この子たちを飢えさせてはいけないとの思いで生活の糧を求めるのに必死だった。

 端的な例がどぶろく造り。米と麹(こうじ)さえあれば簡単に作れたため、手っ取り早く稼げる手段として、どこのトンネでも盛んだった。自分たちが飲むためもあった。中には麹を売る人もいた。むろん密造なので、警察に摘発されることもざらだったが、同胞たちは逮捕を免れるためあれこれ知恵を絞った。

 広島県呉市に住む朴仁煥さん(64)によると、摘発を逃れるために豚を飼う人たちがいたという。「どぶろくを造ると酒粕が出る。その臭いを家畜の臭いで消した」。

 東京大田区の馬込トンネの中心には、かつてスピーカーが設置されていたが、これは警察の摘発を知らせるためだった。顧客の中には刑事もいたが、手入れの日時をこっそり教えてくれる人もいたという。

    ◇     ◇

 闇市での飴売り、米の売買も盛んだった。一時、同胞のほとんどが水飴造りに携わっていたという千葉・習志野トンネ。一人の同胞が造り方を覚えて来て、みんなに伝授した。東京の錦糸町に飴屋がずらりと並び、持っていけばいくらでも売れた。

 朝鮮戦争の頃には、古鉄業に携わる人が増える。賃金1万2、3000円の時代に、鉄屑を拾っただけで4、5000円になった。戦争には反対だったが、現実は皮肉だった。土木業に従事する人も増えていった。

 だが、実際には正業にありつける人はほとんどおらず、日雇いで生計を立てていた。同胞たちの生活は非常に苦しく、それが59年12月に始まった、朝鮮の帰国者増加の大きな理由だった。

 こうした生活ぶりを反映してか、結婚式などもトンネで質素に行われることが多かった。式場は自宅や町内会事務所で、宴席にはトンネの女性たちが総出で作った手料理が並んだ。、野菜をふんだんに使ったチジミが主流だった。酒もトンネの同胞たちが持ち寄った。足りなくなると、女性たちが近所を走り回ってかき集めてきたという。
(羅基哲、文聖姫記者)

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