近代朝鮮の開拓者/文化人(3

徐載弼(ソ ジュピル)


 
人・ 物・ 紹・ 介

 徐載弼(1866〜1951年)全羅南道宝城郡の郡守の家に生まれる。7歳でソウルの親戚の家で金玉均と親交を結ぶ。甲申政変失敗の後、米国に渡り、苦学をしながら医学を学び、米国の大学で学問を教える。帰国し、「独立新聞」「独立協会」を作る。


開化派、米で医大教授に
「独立新聞」、「独立協会」結成

 徐載弼は、全羅南道宝城郡の郡守であった徐光彦の次男として生まれた。7歳になり、ソウルで判事をしていた親戚の金聲根の家で勉強を始めることになった。

 彼はそこで、この家と親戚関係にあり、しばしば遊びにきていた金玉均と出会った。幼いが向学心に燃える徐載弼を見て、金玉均はあれこれと教えてあげるなど、共に親しくなっていった。

 徐載弼は当時の学問である中国の論語を初めとする四書三経を猛烈に勉強し、これらをほとんど暗記してしまった。彼が13歳の時、臨時の科挙(両班官僚の登用試験制度)の試験が実施されたが、最年少の彼がトップで合格してし、一族の者や金玉均を喜ばした。

 金玉均は、わが国を早く文明国家とするための人材の育成のため、才能ある青年のうちから61人を選んで日本への留学を説き、それを実行させていった。

 徐載弼も選ばれ、他の青年と共に東京の陸軍幼年学校に入学し、新式軍事教育を受けることになった。2年間の過程を終えて帰国したのは、甲申政変の年、1884年5月であった。

 周知のように、同年12月、近代的な郵政局の落成祝賀宴に参加し、守旧派を殺した金玉均ら急進開化派のクーデターは成功するかに見えた。が、閔妃(ミンビ)の委嘱を受け清軍が出動。開化派の兵力や王を守る日本軍を制圧し、クーデターは3日天下に終わった。

 徐載弼は金玉均らと共に日本に亡命したが、さらに日本を離れ、徐光範らと共にアメリカに向かった。1人サンフランシスコに留まった彼は、英語の勉強を兼ねて長老会の教会に通ううちにホルネンベシクという実業家と親しくなった。この人は故郷のウエスバレで中学校を経営し、ラファエット大学とペンシルバニア大学の理事をしていた人であった。

 徐載弼の誠実さを見込んだ彼は、自分の中学校で勉強してみないかと勧めてくれた。これを受けた徐載弼は、同校の校長の家でアルバイトをしながら3年を終了、ラファエット大学に入学したのであった。しかし学費が続かず2年で中退、後にフィラデルフィアに向かった。ここでアルバイトをして学費を蓄えた彼は、ジョージワシントン大学医学部に入学した。4年後に卒業し、母校で細菌学を教えることになった。

 しかし彼は、母国を忘れることはなかった。1896年、大学を辞職して帰国した彼は、国の自主独立のためまず独立門を、そして「独立新聞」を、さらに「独立協会」を結成して活動を展開していったのである。
(金哲央、朝鮮大学校講師)
独立新聞」を製作していた培材学党ぼ印刷所)

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