日本の過去の清算、被害者は訴える
栃木・足尾銅山で強制労働
鄭雲模さん(千葉県在住、78歳)
謝罪なくして生まれぬ信頼 生き別れの母、今もまぶたに トラックに乗せられ「まさに拉致」 「母の面倒を見なければならない」とつっぱねた瞬間、「このヤロウ、テメーの国じゃないか」とビンタが飛んできた。 オモニを連れて逃げようと大急ぎで家に帰ったが、すでに遅かった。足尾銅山の坑内部長や面事務所の役人ら4、5人が家の周りを囲んでいた。力ずくで鄭さんをつかみ、トラックに乗せた。 清州から釜山、下関へ。汽車で栃木県の足尾銅山へ連行された過程は、まさに「ら致」だった。何より辛かったのは、母一人を置いてきたことだった。自責の念は今も消えることがない。 毎朝6時に叩き起こされ、50キロの荷物を背負い運び歩き続けた。空気が悪く、体調を崩し2、3日仕事に出られないことがあった。会社側は、仮病を使ったと底に金具のある靴でさんざん蹴りつけた。 足尾銅山は24坑もある大規模の鉱山で、1坑の間隔は数100メートルを超える。荷物を背負い、「ゲージ」(エレベーターのようなもの)に乗ったり、はしごをつたって上り下りする。 ある日、鄭さんは、道具を担いではしごを上がり切った瞬間に、足を踏み外して下へ転落した。運良く、転落したところにむしろが敷いてあったので、命はとりとめたが、左足を骨折。意識を取り戻した時には病院に担ぎ込まれていたが、左足に傷跡があった。足を切断されそうになったのだ。 落盤で死んだ同胞を弔いもせず、葬ろうとしたことを暴露した鄭さんは、会社にとって「目の上のたんこぶ」だった。だから「足を切断して本国に帰そうとした」。 よく組長らに反発した鄭さんは、たびたびリンチを受けた。木刀で力いっぱい殴り付ける組長「山本」の罵声が、今も耳から消えない。 「テメーら、1匹や2匹くたばったってどったことねーや。3銭もあれば、テメーら何百人、何千人と引っ張ってこれるわ」 「切手1枚が3銭。封筒に3銭の切手を貼って朝鮮人狩りができた」。2年に及んだ強制労働の日々は「死と向かい合わせだった」。 三重県で、1000人を超す教職員の前で話した時のことだ。演壇から降りると、数人の教員たちが大粒の涙を流しながら駆け寄り、「よく生き残られた」と鄭さんを抱き締めた。鄭さんの頬にも熱いものが伝ってきた。 講演の場で日本人の良心に向き合うたびに、足尾銅山からの逃亡を手伝ってくれた組長の石川さんを思いだす。「日本人に苦しめられ、日本人に救われた」。 国連でも2度発言し、日本政府と古河鉱業(現古河機械金属)に公式謝罪を求めて日本弁護士連合会に人権救済の申し立てをした。「ただただ、人間としての尊厳を取り戻したかった」。 朝・日両国の国交は、お互いに信頼し、信じ合わないと実現できないのではないかと語る。 「その信頼関係があるだろうか。日本には加害者の立場に立って、心からわき起こる謝罪をしてほしい」 命尽きるまで証言を続けるつもりだ。「聴衆がくれる元気」が、強固な意志を支える。(張慧純記者) ◇ ◇ 解放から50数年。いまだなされない日本の「過去清算」が、同胞被害者の人生をどのように振り回してきたか。朝・日国交正常化交渉が再開された今、被害者の痛みや声をもう一度見つめる。
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