石原発言は日本人の恥を天下にさらす
問うべき戦争、歴史観

松尾章一(法政大学教授)


あいまいな言葉でごまかし続ける

 今、日本国内のみならず国際的にも批判を浴びている石原知事の発言は、同世代でもあり彼の言動にこれまで非常な関心を抱いてきた私には、日本人の恥を天下にさらされた思いがして恥ずかしさでいたたまれない毎日である。

 昨今の政財界のみならず警察・教育界などの腐敗・堕落ぶりを見るにつけ、日本はもはや亡国の一途を突き進んでいるようである。石原発言は、このような日本の憂うべき事態の象徴的な事件ではないだろうか。新聞報道には、石原氏の「三国人」発言が差別的なものであったかどうかに焦点がおかれ議論されている。

 石原氏は4月12日の記者会見で、「三国人は外国人の意味」で「正当な日本語を正当に使ったのに、非常に誤解されたことは極めて遺憾だ」と反論し、謝罪、辞任するつもりはないと述べた(朝日新聞 4月12日号夕刊)。

 同月14日の都の定例記者会見では、「三国人」の言葉を使用した背景には、在日外国人などへの差別感情は含まれていなかったことを重ねて強調した。また「大災害時の外国人騒乱には自衛隊の治安出動を要請する」と述べたことに対して、「騒擾(そうじょう)事件に対する抑止も防止も災害救助」だとの見解を述べた。

 さらに「(騒擾事件が)起こらないに越したことはないが、最悪のケースを想定するのは演習を主催する側の責任」だと明言した(産経新聞4月15日号朝刊)。

 石原氏は、今回の自分の発言に対する在日朝鮮人・「韓国人」をはじめ外国報道関係者の一斉の非難に対して、反省の色を全く示さないばかりか、この発言を正当に報道した新聞記者を名指しで詰問した。

 日本の政治家がしばしば使って国際的にも非難を浴びている「遺憾」という日本的で極めてあいまいな言葉を使ってごまかし続けている。文学者は言葉を正確に使うことが使命だと思う。もはや石原氏は文学者の魂も良心もなくして、彼自身がよく批判している日本の愚劣な政治屋や官僚などと同類の低劣な人種に堕落してしまったのであろうか。

べっ視観の原点は朝鮮人虐殺に

 日本人の宿病・業病(なかなか治りにくい病気)ともいえる朝鮮人・「韓国」人・中国人などのアジアの人々に対するべっ視観の原点は、6000人以上の朝鮮人と700人以上の在日中国人を虐殺した、日本歴史上最大の汚点である関東大震災にあると考えられる。

 筆者が大変憂慮しているのは、石原氏の発言だけではない。TBSラジオが14日朝に放送した番組での視聴者のアンケート調査によれば、石原支持が8割を超えたということだ(同上産経新聞)。

 近年、南京大虐殺の否定発言をしたり、日本国憲法の熱烈な改正論者で、日本の政治家の中でもウルトラ・ナショナリストと定評がある石原氏の支持者が都民や日本国民とくに戦後生れの若い人々に少なくないというこんにちの日本人の精神的風土を問題にすべきだ。

 1945年8月15日の日本の敗戦前後、日本の旧天皇制政治家・官僚がもっとも憂慮したことは、在日朝鮮人の治安対策をいかにすべきかということだった。この頃にも在日朝鮮人に対するまったく根拠のない流言飛語が口実にされていた。石原氏の発言にも大日本帝国憲法下の天皇制支配層の意識が見られる。

 アジア・太平洋戦争における日本帝国主義の侵略戦争によって筆舌に尽くしがたい悲惨な被害にあいながらも、いまだに日本政府や企業から心からの謝罪と補償をうけていない朝鮮・中国・台湾などの戦争被害者たちは、賠償請求訴訟裁判と戦後補償運動を展開している。

 第2次世界大戦後の戦争犯罪に対する国際法・人権法の世界史的潮流とはまったく逆行している日本政府や裁判官の歴史観・戦争観を正しく変えさせるためには、まずなによりも日本人の歴史観・戦争観を見つめ直すことが、今こそ重要な時ではないかと思う。石原発言は、そのような試金石ではないだろうか。(文中の「韓国」などの「」は編集部)

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