わがまち・ウリトンネ(73)
連載を終えて (上)
強制連行の飯場跡に密集 訪れたのは17ヵ所、福岡から宮城まで 4月21日付の「宮城・多賀城、塩竃」編を最後に、「ウリトンネ」の連載を終えた。 昨年10月の開始以来、72回にわたって連載してきた。訪れたトンネ(部落)は17ヵ所。南は九州・福岡から北は東北・宮城まで、12の地方を回った。 連載の目的は、日本各地に点在する同胞のトンネがなぜできたのか、ひいてはなぜ朝鮮人が日本に住むようになったのかを探ることにあった。取材にあたっては、その経緯や当時の歴史を知る1、2世の証言で記事を構成することを心がけた。 証言者はメインだけでも27人。朝鮮解放(1945年8月15日)から50年以上が過ぎ、1世の減少、高齢化が進むなかで、証言者を探すことから取材は困難を極めたが、総聯の支部や分会をはじめとする地元の人々の協力でことなきを得、貴重な証言を聞き出すことができた。 ◇ ◇ 同胞が密集するトンネがなぜできたのか。そこにはある共通点が見られる。強制連行などの飯場跡であったということだ。 典型的なのが福岡の小倉、八幡。小倉には小倉炭坑や陸軍造兵廠(しょう)小倉工場、曾根飛行場(現北九州空港)などがあり、八幡には有名な八幡製鉄所があった。 現在も軍港である広島の呉には戦前、海軍工廠があり、多くの朝鮮人が強制連行された。山の上の随所に飯場があり、戦後はそこにトンネができた。神奈川の川崎、埼玉の深谷、千葉の習志野など、そのような場所は各地にある。 強制連行ではないが、東海道線の東山トンネル工事に集団で動員された同胞たちが、そのまま居着いた京都・東九条のようなケースもある。 特異なのは東京・枝川で、ここは人工的に作られたトンネだ。東京オリンピック開催(40年に決まっていたが中止)のため、朝鮮人を隔離する目的でここに集合住宅が建てられた。 解放後、親戚・知人を頼ってやってきた同胞たちによって、自然にトンネができていったケースもある。広島の基町はその典型である。 原爆ドームの手前にある相生橋から三篠(みささ)橋の間にあった「原爆スラム」と呼ばれる場所に、同胞たちはトタン屋根のバラックを建てて住んだ。土、日に建て月曜日に入るパターンが主流だったという。 大阪の猪飼野の場合は戦前、工場に出稼ぎに来た済州道出身者を頼って、同郷の人々が続々と来阪してきたことが、トンネのルーツと言われる。済州島―大阪間に定期船が運航していたことも、拍車をかけた。 (羅基哲、文聖姫記者) |