日本の過去の清算、被害者は訴える(3)
納得できるまで法廷でたたかう
東京地裁の判決に血と涙があるのか
中国で7年間の「慰安婦」生活/宋神道さん(宮城県在住、77歳)
16歳の時に連行 宋神道さん(77)が日本軍の「従軍慰安婦」として連行されたのは、1937年。数えでわずか16歳の時だった。母が決めた相手と婚礼を挙げたが、嫌でその日の内に逃げ出し、1人さまよっていたところを、「戦地へ行ってお国のために働けば、結婚しなくても独りで生きていける」と騙された。どんな仕事をするのかも知らずに、忠清南道大田から新義州、中国の漢口へ。そこから船で占領直後の中国中部の武昌へ連れていかれ、「世界館」という慰安所で日本兵相手の「慰安婦」生活が始まった。 大人の世界で、女性の性が売買されることなど想像もできない少女だった。 体に「慰安婦」生活を象徴する3つの傷跡がある。耳の難聴は、軍人に繰り返し殴られたのが原因だ。 「学校も出てないから字も読めないし、言葉も通じない。情け容赦のない軍人は刀を抜いて暴れまくった」。脇腹にある10センチの刃傷がその傷だ。股の付け根にも、えぐられたような深い傷がある。 朝7時から夜12時まで、ひどい時には70人の相手を強いられた。 武昌で約3年間の「慰安婦」生活を送った後も、平州、長安、応山などを「部隊付き」の「慰安婦」として転々とする。 7年間の「慰安婦」生活で、望まない妊娠、出産も経験した。朝鮮から中国までの旅費、飲食費、衣服代などが「借金」とされ、それを返済したのちも国防献金に協力するという口実で現金を受け取ったことはなかった。 「普通の人間だったら死んでいた」。宋さんのいた「世界館」に隣接した「ヤマト館」という慰安所にいた19歳の女性は、消毒用のクレゾールを飲んで自殺した。首を吊って自殺した者もいた。 そんな宋さんが裁判を決心したのは、南朝鮮の「慰安婦」として初めて名乗りをあげた金学順さん(故人)が東京地裁に提訴(91年12月)する姿をテレビで見てからだった。 93年4月5日、日本政府に謝罪と補償を求め、東京地裁に提訴。在日朝鮮人の元「慰安婦」で唯一、法廷でたたかってきた。 「悪いことしちゃいけない。悪いことをすれば反省して謝罪しなければならないんだから。5本の指切って痛くない指はないんだよ。この戦争のために、自殺したり、腹切って死んだり、戦争が一番いけないんだ。自分のまなこで見ればみんなそう思うよ。人ごとじゃないんだよ。 1人で悩んでても仕方ないから、全部、裁判官さ話して死んでいきたいと思って、涙のんで来てるんでがす。裁判官、どうぞ血と涙があるならば、国にちゃんとやるように、判決出して下さい。どうか、誠意ある判決を出してください」(99年2月19日の最終意見陳述で) あまりの判決の短さに宋さんはあっけにとられ、しばらくその意味を理解できなかったという。 落胆した宋さんの表情が変わったのは、裁判所の外で宋さんを待っていた支援者を目にした時だった。広島、山口、山形…。200人の応援者に宋さんの目がうるんだ。 7年間の「慰安婦」生活、戦後も日本政府に放置され続け「魂が落ちつく場所はなかった」(支援者)宋さんにとって、裁判の過程で出会った支援者が、心の拠り所となった。 「事実を認めているのに(謝罪を)やりたくないというのは、謝罪、反省をしたくないということ。 『負けた裁判、まだやるのか』って言われたけど、気にしねえんだ。納得できない」 「オレはやる。最後までする」 (張慧純記者) ◇ ◇ 宋神道さん控訴審第2回口頭弁論 5月11日(木)、東京高裁813号法廷14時50分に傍聴券抽選開始(15時半開廷) 報告集会 トークセッション「宋さんと会って感じた2、3のこと」シニアワーク東京地下講堂(JR飯田橋駅)で同日18時半から 問い合わせ=在日の慰安婦裁判を支える会(TEL 042・241・0251)
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