この人と語る

日本は、渡来の集団の役割を認めぬ風潮直すべき
現代に誠信のまじわりを

上田正昭さん
京都大学名誉教授・歴史学者


 ●1960年代の頃から、古代日本の歴史と文化の究明はアジア、とりわけ東アジアを軽視しては十分に果たすことができない、と痛感。これまで朝鮮民主主義人民共和国に3回、「韓国」に10数回、中国に20回、沖縄には12回ほど足を運んだ。


朝鮮文化をたずねる会・イン
清水寺で講演する上田正昭さん)

  そんな上田さんの熱意は朝鮮を正当に評価したいという史眼にもとづく。

 「渡来の文化は認めるが、渡来の集団とその役割を認めないという風潮は、いまなお存在する。そうした見方が誤っていることは、その後の研究成果からもただされてきた。人間不在の文化論によっては、古代日本の歴史と文化を正当に評価できるはずがない」

 ●こうした、上田さんの史眼の正しさは近年の発掘成果によっても、より鮮明に実証されている。

 「例えば、佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、弥生時代における巨大な環濠(かんごう)集落として新たな問題を数多く提起したが、その変形の8角形墳丘墓の甕(かめ)棺墓から出土した、把頭(はとう)飾付有柄銅剣と同類のものは、慶尚南道茶戸里遺跡からみつかっているし、また、これに共伴したあの華麗なガラス制管玉と同種のものが、忠清南道合相里遺跡から出土している。

 従来の見解では環濠集落は、朝鮮半島ではあまり例がなく、弥生時代の環濠集落のルーツは、中国の江南地域に求める説が有力であったが、最近になって、慶尚南道検丹里で環濠集落が検出され、通説の再検討が改めて必要となっている。

 そればかりではない。吉野ヶ里遺跡出土の埋葬人骨300体あまりの人類学的考察によれば、その多くが渡来型人骨である」

 ●上田さんは、これらの発掘成果について、こう指摘する。

 「吉野ヶ里遺跡を、単純に日本人の遺跡とみなすような見方や考え方には、もとより賛成するわけにはいかない。日本民族を単一民族とみなす素朴な受けとめ方は、いまもなお日本の政治家・官僚のみならず、多くの人々の中に根強く生き残っているが、そうした曲解は、1910年代から日本の学界の中で提起され続けてきた。複合民族説にかんする研究史をかえりみない俗説であり、実証的な歴史学や考古学・人類学などの研究成果を無視した、歪められた見方や考え方であるといわざるを得ない」

 ●さらにいわゆる日本文化の成り立ちが複合文化であったことは、柳田国男氏や折口信夫氏らの民俗学的研究によっても、はっきりみきわめることができるとしたうえで、上田さんはこう語る。

 「奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の、あの多彩な副葬品にそくしても確認できるし、金銅製の冠や履のルーツのみを取り上げても、朝鮮半島の文化と深いかかわりを保有していたことが確かめられよう。日本国の国号が使用されるようになるのは、7世紀後半以降であって、藤ノ木古墳の築造年代と想定されている6世紀後半に、日本文化などという用語を使用すること事態が、そもそも学問的ではない。一部の研究者が、藤ノ木古墳の副葬品には、『日本文化の独自性』があると強調したが、そこに地域差や時代相が投影されているのはむしろ当然であって、東アジアとりわけ朝鮮半島の文化との脈絡を捨象するのは、あしき島国史観にとらわれた逆コース的論説ではないか。東アジア随一といってよい透し彫り鞍金具の見事なデザインには、東アジアの文化の一端が集約されている。私はこの鞍金具やその他の金銅製副葬品の多くも、やはり渡来系の工人たちの製作になるものではないかと推測している」

 ●しかし、古代の日朝関係もまた、決して光の部分のみによって形づくられていたわけではない。上田さんは、「古代の日朝関係がたえず友好的だった」とするのは、「歴史離れになりかねない」と主張する。
 「養老4年(720)の5月に最終的完成を見た『日本書紀』には、しばしば『帰化』の語が登場する。その多くが朝鮮半島からの渡来の場合に用いられている。これは『古事記』や『風土記』などが『渡来』などの語を使っているのと対照的である。『欽化内帰』の略語ともいうべき『化帰』『帰化』は中国の中華思想に由来する。王化を慕って他民族あるいは外国人が『欽化内帰』してくるものを『帰化』者とみなしたことは、中国の古典にもみえるところである(たとえば『後漢書』)。その日本版中華思想が具体化して、日本の古代法(たとえば養老令)や『日本書紀』の『帰化』という表現になる」

 ●中世から近世にかけてはどうか。豊臣秀吉の無謀な朝鮮侵略は、李舜臣将軍をはじめとする朝鮮軍や民衆の果敢な反抗によってあえなく敗北したが、その不幸によって歴史のきずなが絶たれたのではなかった。「1607年から1811年におよぶ朝鮮通信使の来日は、江戸時代の日朝関係を多彩にしたばかりでなく、日本と朝鮮の友好往来に画期的な成果をもたらした」と指摘する。

 ●上田さんが日朝問題を論じる時に、つねに指摘してやまないのが、第9次の朝鮮通信使の渉外担当(真文役)であった雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の思想と実践だった。対馬藩儒でもあり、外交家、思想家、教育者であった雨森芳洲はその著書「交隣提醒」でも力説した「誠信と申し候は実意と申す事にて、互いに欺かず争わず、事実を以て交り候」と説いた。上田さんはこの雨森芳洲の「誠信」の 
考えこそ、今に蘇らせるべきだと語る。

素顔にふれて

朝鮮を正当に評価する史眼

 このほど第10回南方熊楠(みなみかたくまぐす)賞を受賞。昨年末には著作集(8巻)が完結。そのほか地元・京都で20数年も「日本書紀を読む会」を引き受けてきた。

 戦後から半世紀。歴史学界で多大な業績を積み上げてきた。鋭い人権感覚から在日朝鮮人や被差別部落の問題に積極的に関わり、その問題意識から、従来の学統を総合する独自の方法で研究を大成した。上田さんの足跡は天皇制に迫る古代国家論、古代朝鮮、南島文化、神祇と道教、日本神話、部落史、芸能史、女性史、対外交流史、地域史まで多彩。著書42冊。共編著368冊にのぼる。

 今度の受賞はその幅広い学問と行動力に対して贈られた。

 上田氏の古代日本の歴史と文化の究明は、東アジアとりわけ、朝鮮を正当に評価したいという歴史観に基づく。高麗青磁、李朝白磁を愛でる日本人は多いが、それを生み出した朝鮮民族への敬愛の情が欠落していると常々指摘する。

 「まわりを海で囲まれている弧状の日本列島は、文字通り『島国』である。『島国』なるが故に、とかく日本列島の歴史と文化は、この列島内部のみで形づくられたかに考えられやすい」と指摘しながら、「古代日本の基層文化の形成に海上の道を媒体とした海外の人々とのふれあいがあった」ことを強調する。

 歴史に目覚めたのは1941年、中学2年の時だった。第2次世界大戦の最中、発禁書だった津田左右吉の「古事記及び日本書紀の研究」を目にしたことが契機となった。

 「学校の授業と余りにも内容が違うのでショックを受けた。本当の歴史とは何か、今にして思えばこの書との出会いが私の歴史学への芽生えとなった」

 21世紀への課題は「善隣友好の輝ける日の光で、影の正体を照射し、そのわい曲の歴史を正すこと」だと語る。学問への情熱は益々燃え盛っている。 (朴日粉記者)

プロフィール

 うえだ・まさあき 1927年、京都生まれ。京都大学史学科卒業後、京都府立高教諭、立命館大学講師を経て、71年に京都大学教授。現在、名誉教授。アジア史学会会長、世界人権問題研究センター理事長、大阪府立女子大学長などを歴任。著書に「日本古代国家論究」「帰化人」「日本神話」「上田正昭著作集」(全8巻)など多数。

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