日本の過去の清算、被害者は訴える(2)
旧日本軍軍属としてタラワ島で強制労働
劉喜亘さん(大阪府在住、80歳)
結果見ずに死ねぬ=^罪作った方が償うのは当然
私自身が「証拠」 「植民地支配のかたをきちんとつけるべき交渉の場に、証拠もない問題を持ち出し、一緒に議論しようなんてとんでもない。戦後補償の問題は、被害者である私自身が『証拠』だ」 劉喜亘さん(80、大阪府門真市)は自宅のベッドで、ほとんど寝たきり状態で暮らす。ここ数年、体の調子が思わしくなく、入退院を繰り返している。 59年前、旧日本軍の軍属として連行されたタラワ島で、米軍の空襲にあい負傷した左脚の後遺症に長年苦しんできた。年金などで手厚い保護を受けている日本人の元軍人・軍属とは違い、日本政府からの補償は一切ない。劉さんの妻が自宅近くで小さな朝鮮乾物屋を切り盛りし、生活を支えている。 劉さんは1919年、慶尚南道で生まれた。勉学を志して14歳で渡日し、広島の専門学校で学んだものの就職はままならなかった。職を求めて各地を転々としていた劉さんが、「徴用」に引っ張られたのは41年、島根の軍需工場で働いていた22歳の時だ。 広島・呉海兵団での訓練を経て、東京・芝浦を貨物船で出発。12月25日、日本から5000キロも離れた南太平洋の赤道直下の島、ギルバート諸島のタラワ島に到着する。 タラワ島には朝鮮から強制連行された朝鮮人海軍工兵が大勢いた。 劉さんを含め朝鮮人ら約1500人は、連日41度を超す猛暑のなか、滑走路拡張工事や防空壕造りなどの重労働を強いられた。満足な食事も与えられなかった。 そんな生活が約1年間、続いた。 その間、島は何度か米軍の空襲を受けた。同胞の犠牲者も多かった。9月の大空襲の際には、劉さんも左脚に大けがを負う。「空から海から爆弾が雨のように降り注いだ。必死で逃げていたら、ヤシの木が爆風で倒れた。痛いと思って見ると、自分の脚が爆弾の 傷は化膿して痛むが、満足な医薬品はない。ヨードチンキを塗るだけだが、「染みて、痛いなんてもんじゃなかった」。たまらず夜中、こっそりと海岸へ出て海水で洗ったという。 このけがで作業ができなくなった劉さんには、退去命令が出た。ちょうど船が来たので帰還命令も出て、日本行きの船に乗り込む。しかし、約10時間後に米軍の魚雷が輸送船に命中。同乗の同胞たちの多くが犠牲になった。バラバラになった死体を集めて近くのロット島で火葬し、次の船を待った。無事横須賀港に着いた時は、タラワ島を出てから3ヵ月が過ぎていた。 43年12月20日に除隊した劉さんは翌日の新聞で、タラワ島の朝鮮人軍属1500人全員が11月25日に「玉砕」した事実を知る。 劉さんはまさに「九死に一生」を得たのだった。 金ではなく誠意を 最近、自民党がまとめた旧植民地出身者の元軍人・軍属に対する「一時金」支払い案について聞くと、「子供だましじゃないか。今頃になってふざけるな」と一蹴した。「金額の問題じゃない。人間として誠意ある対応をすべきだ」。 「日本は戦争中、朝鮮人を苦しめた。当然、国として賠償すべきだ。 苦しめられた恨みがある限り、日本を信用できない。過去に罪を作った方が償い、信用を回復すべきだ。日本政府は、私たち生き証人が死ぬのを待っているのか。結果を見ないで死ぬことはできない」 (韓東賢記者)
|