石原発言、日本民衆の恥辱
山田昭次/(立教大学前教授)
石原慎太郎東京都知事の「三国人」発言に対し、在日同胞はむろん、日本各界から厳しい批判の声が相次いでいる。長年、日本と朝鮮の近現代史を研究してきた山田昭次・立教大学前教授に発言の問題点と、それを克服するうえで早急に解決されなければならない問題点について寄稿してもらった。
関東大震災のデマと変わらぬ 朝鮮人をはじめ外国人を凶悪犯人視する石原知事の態度は、民族解放を求める朝鮮人を凶悪犯人扱いをした日本の官憲が、1923年9月1日に関東大震災が起こると、朝鮮人暴動の幻想に襲われてデマを撒き散らし、戒厳令を布告した姿と変わっていない。 朝鮮人の解放運動は1919年の3・1を跳躍台にして高揚していた。 しかし大震火災に脅かされて命からがら避難していた朝鮮人が暴動を起こせるはずもない。 この頃は、義烈団に代表される朝鮮人のテロ闘争も起こった。しかし彼らが、投弾の対象としたのは日本の権力機関だけであって、日本人民衆に危害を加えたことは1度もない。それなのに官憲やこれに追従した新聞は、相手を選ばずに危害を加える凶悪犯のような朝鮮人像を日常ばらまいていたので、民衆までもが軍隊・警察の朝鮮人虐殺に加担する結果となった。 しかし、今日に至るまで日本国家は謝罪していない。それ以上に恥ずかしいことだが、日本人の知識人や民衆が建立に関係した朝鮮人犠牲者の追悼碑や墓でも、日本人官民が朝鮮人を殺したことを明記したものは1つもない。 日本人がつらくとも、国家の朝鮮人虐殺に加担した民衆責任を告白すると同時に、日本国家に謝罪をさせていたならば、石原知事といえどあのような発言はできなかったろう。この意味で石原発言は日本民衆の恥辱だ。 「三国人」という呼称は、敗戦後の日本占領期、日本の植民地支配下にあった台湾系中国人、とくに朝鮮人を指し、しかも彼らが闇市で勝手放題なことをしたという偏見と結びついた言葉である。 しかしあの当時、日本人、朝鮮人を問わず誰しもが、配給以外の闇物資の取引にも依存しなければ生きられなかった。それなのに、朝鮮人の闇取引にだけ目くじらを立てるのは、民族的偏見だ。現在の日本人の凶悪犯罪には眼をつぶって、外国人の犯罪のみに目くじらを立てるのも民族的偏見だ。石原知事はこのことを自覚していない。 遺族の痛み深く受け止めよ 石原知事はまた、「今日の日本を眺めますと、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国。以下共和国と略称)にら致されていった、いたいけなあの少女1人を救うこともできずいる」と、日本政府の尻をたたいた。共和国でこのら致事件をその教官から聞いたと証言する安明進氏はいま「韓国」にいる。日本政府が係官を「韓国」に派遣して安氏に尋問し、その証言の信ぴょう性の有無を確かめたということは、日本当局から聞いたことがない。 捜査の初歩的手続きも踏まない日本政府に、横田さんを探す気が本当にあるのだろうか。そうではなくて、横田さん問題を日朝会談の取引材料に使っているのではないか。いずれにしても、この問題を日朝会談に提出する前に、日本が早急になすべきことがあった。それは植民地支配に対する謝罪と償いを行ったうえで、国交を正常化することである。 日本に強制連行されて、今も行方不明のままの肉親に心を痛めている遺族が「韓国」にいる。共和国にもそうした遺族がいるだろう。日本政府は、行方不明者の横田めぐみさんのご家族を想う心が本当にあるなら、これら朝鮮人の遺族の痛みも深く受けとめ、本人の死亡年月や死亡場所の捜査を早急になすべきである。遺族もすでに高齢になっているのだ。 日本側が自己が犯した罪の償いもせずに、共和国側に横田さん探しを要求するのでは日朝会談の促進は難しい。横田さん問題に関する日本政府の今のやり方を鞭たつする石原発言は、日本民衆の側も被害民族の痛みに対する省察が不十分であることの反映でもある。この意味でも石原発言は日本民衆の恥辱である。(文中の「韓国」などの「」は編集部) |