わがまち・ウリトンネ(71)
宮城・多賀城、塩竃(2)
飯場の多数の同胞、人柱で埋められる? 戦争末期には疎開地に 多賀城市と塩竃市には、1942年に始まった多賀城海軍工廠(しょう)の建設のために、多くの同胞が強制連行されてきた。一方、戦争末期には、日本人だけでなく、同胞も少なからずこの地に疎開してきた。 朴基用さん(77)も、兵庫県から塩竃市に疎開してきた1人である。44年6月13日のことだ。 朴さんは30年、7歳の時に、故郷の慶尚南道から家族とともに兵庫県に来た。朴さんの父は、土木業に従事して家族を養った。 一方、朴さんは新聞配達などをして働いたが、日本国内にいた同胞に対する徴用が始まり、それを避けるために40年からは尼崎製鉄で溶接工として働くようになった。軍需工場に指定されていた同製鉄で働けば、徴用を避けることができたからだ。 にもかかわらず43年、「最重要任務」という名目で、朴さんは明石市の川崎航空機明石工場に徴用で引っ張られることになった。川崎航空機は、中島、三菱に次いで生産機数第3位で、社長は東条英機(太平洋戦争開戦時の首相)の弟が勤めていた。 「憲兵が監視していたので逃げることもできず、仕方なく旋盤工として働いた。1年後、父が亡くなり、会社を休んで葬儀に行った。1周忌の時も、会社を休みたいと憲兵に頼んだが、『南方へ飛ばすぞ』と脅された。それでもチェサ(祭祀)だけはきちっとやりたかったので、無断で会社を休んだ。45年1月19日のことだが、ちょうどこの日、米軍爆撃機による空襲があり、工場は焼けてなくなった。会社に出ていれば、死んでいたでしょう」 ◇ ◇
◇ ◇ 工場が焼け、会社に出る必要はなくなったものの、空襲は激しさを増した。朴さんは知人の紹介で、同胞の飯場があった塩竃市の桜ヶ丘に疎開する。 「飯場には100人ほどの同胞がいた。中には私同様、疎開してここにきたという同胞も。一方、飯場の労働者の中には、事故や栄養失調などで死ぬ人も少なくなかったと聞く。同胞の飯場があった付近の慈雲寺、東園寺、願成寺などには、100余人の同胞死亡者名簿が今も残っている」 また橋げたのコンクリートに、同胞が人柱として埋め込まれたとも言われる。当時、同胞が命がけで抵抗し、逃亡を試みたあげく失敗すると、憲兵によって虐殺されたともいう。 (羅基哲記者) |