近代朝鮮の開拓者/文化人(2

朴殷植(パ  ウンシ


 
人・ 物・ 紹・ 介

 朴殷植 (1859〜1925年)黄海道黄州郡の出身で、勉学に励み、優れたジャーナリスト、教師、歴史家として活発に健筆を振るい、民衆を啓もうし、また独立運動家としても多くの業績を残した。亡命中、上海で死去する。著書に「韓国痛史」などがある。


「韓国独立運動の血史」を執筆
祖国の独立達成のため団結を強調


 朴殷植は、黄海道黄州郡の生まれ。1876年の開港の時が17歳。新文明を受入れ文明開化の大波に揺れ動きながら、同時に当時祖国が日本や清国、ロシアなどの列強の侵入を受け傾いていくのを肌で感じ出したのが20代の青年期であった。

 「それなら自分は何をなすべきであろうか」。彼は列強の侵略を防ぎ、近代社会を建設するため、まず必要なのは民衆の啓もうであり、民族教育であると思い定め、この事業の先頭に立とうと決意する。

 文献などによれば、彼は穏やかで心が広く、気さくな人柄であったという。しかも出生のため官職を望むのでなく、民族と国家のため同志と力を合わせ民衆の中で行動を共にするタイプであった。

 そして、何よりも目標の達成のため、大言壮語(だいげんそうご)するのでなく、地道に努力を重ね、自らを鍛練していくことのできる人格であった。

 彼の活動が目立ってくるのは、1898年に張志淵、南宮億などと「皇城新聞」を刊行し、張志淵と共に主筆となり、民衆の啓もうに尽力していった時であるが、その時、すでに40歳であった。



 それ以後、これまで蓄積された力を発揮して、以下のような活動を繰り広げる。

 (1)「皇城新聞」、「独立新聞」(1919年より上海で発行)の主筆、社長などのジャーナリストとして健筆を振るう。(2)民族教育のために、成均館の後身である経学院の講師、漢城師範学校の教授となる。

 (3)西北学会長、西北協成学校校長などとして、これら学会、学校、新聞、青年会などを基盤として抗日運動を展開し、(4)1910年に、朝鮮が完全に植民地化すると、やむなく居住地を西間島に移し、高句麗や渤海の故地を調査し、民族古代発展史の研究を始めたのである。

 その成果として「東明王実記」、「朝鮮古代史考」などが執筆された。これらの研究を下に、彼は次のような感慨をもらしている。

 南北満州や遼東平野はみな古代わが民族の活動地であったのに、祖国の歴史を忘れ他民族に同化したため、少なくとも1億となるべき人口が2000万に止まっている、と。

 その後、彼は多くの同胞が移住し、独立運動を続けるロシア領沿海州をめぐり、当時、海外独立運動の拠点となっていた上海に移る。ここで「安義士重根伝」、「韓国痛史」、「韓国独立運動の血史」が執筆されたのである。

 彼は病床時、「独立のため党派の争いをやめ、全民族の統一を!」と悲痛な遺言を残してこの世を去ってゆくのであった。
(金哲央、朝鮮大学校講師)

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