「蔭の棲みか」は何を描いたか  林浩治


  【はやし こうじ】 文芸評論家。1956年、埼玉県浦和市生まれ。國学院大學文学部史学科卒。新日本文学会会員。著作に、「在日朝鮮人日本語文学論」(新幹社、91年)、「戦後非日文学論」(新幹社、97年)、「さまざまな戦後 第1集 」(共著、日本経済評論社、95年)など。

仮構された民衆の「公」は、天皇制的「公」に対峙するか

 玄月氏は在日朝鮮人作家である。「在日としての意識も強く、日韓現代史にも興味」を持っているからだ。彼は、処女作「異境の落とし児」を発表してから、2年半という短い時間で芥川賞を受賞するという、非常に恵まれたスタートを切った。



 「蔭の棲みか」の主人公ソバンは、機銃掃射を受けて、片腕を失った老人である。かつてソバンの息子は、父が日本軍人であったことをひどく非難したが、東京で「過激集団」に加わって殺された。ソバンの棲む集落は、永山という男に支配されている。永山は、金銭欲の強い精力的な男で、ゴム底靴の工場を建てて成功し集落を牛耳っている。

 ソバンが好意を寄せる佐伯さんは、独居老人を訪問するボランティアだが、永山はまっとうで健康的な佐伯さんを嫌い、暴行を働く。また、かつて頼母子講の金を「食い逃げ」して氷柱に縛り付けられ、人々を呪っているスッチャ婆さんが登場したり、地下銀行の金を持ち逃げした中国人が、尻の肉をペンチでちぎられるリンチを受ける場面が出てくる。こうした造形が見事に小世界を築き上げている。



 玄月氏は自らを語りたがらない作家である。金石範氏との対談(「幸福な時代の在日作家」『文學界3月号』)でも、「僕個人にはなんの『恨』もない。李良枝さんや柳美里さんの『恨』を目のあたりにしたら、ちょっと太刀打ちできないと思うんです。彼女たちには迫力があって個人的に凄い存在なんです。僕個人は、トラウマもなしに何となく大きくなった」と言っている。したがって「蔭の棲みか」の舞台となる集落も想像の産物だ。自己の体験に根ざしていないと言える。小説の舞台は日本社会の雛形として組み立てられている。と同時に、この仮構された集落は、日本のすべての混とんとした現実を裏返した姿である。在日朝鮮人のあとに、ニューカマーとしての「韓国」人や、中国人の労働者が「不法」労働している。こういった現実は、単一民族幻想を突き破るものだ。逆に、この小説に出てくる日本人は、佐伯さんと警察官ぐらいなものである。警察官が象徴するものはストレートに国家権力だ。警察官は「単一民族国家」を守るべく登場して、不法労働の中国人を追いかけるが、空しい。そしてソバンは警察官のふくらはぎに噛みついて必死に抵抗する。警棒で連打され顔を蹴られて、仰向けに伸びた片腕の老人の姿は誇らしげでさえある。佐伯さんは、小綺麗で健全でひ弱な日本の良心的市民を揶揄っている。また、小説の裏側には、政治家や、新左翼などの日本人も登場している。描かれない彼らこそ、現実では表側の人々だ。そしてこの集落は裏側であり、蔭であるソバンたちの「棲みか」なのだ。



 実は、玄月氏はその処女作「異境の落とし児」において、既に、集落の原形ともいうべき「チンゴロ村」を焼き払ってしまった。「異境の落とし児」に登場する「元」在日「韓国」人シンは、最後の居場所さえ自分で燃やしてしまった。 異端の棲みかに過ぎなかったチンゴロ村は、「蔭の棲みか」ではより広く社会を呑み込んで再構築されている。チンゴロ村は日本社会とは隔絶していて、この住民は「日本」からはじき出されている。しかし「蔭の棲みか」の集落は、日本社会と密接に入り交じって裏表の関係になっている。そこは反社会的な不良の溜まり場でも、貧しいことによって反体制たる素朴な反抗のるつぼでもなく、日本国そのものの雑多性を写し出している。

 そして、現実の日本で彼等の前に恫喝するように突きつけられた日の丸・君が代の純血な「国民の歴史」は、歴史を抹殺する浪漫の中に大日本帝国の再建を狙っている。玄月氏は彼らと戦わざるを得ない。

 「国民の歴史」の信奉者たちよ、直さいな政治的主張がされていないというので「安心」してはいけない。たんなる風俗小説だと主張するむきもあるようだが、読み違いである。

 この小説は、純血な「大日本帝国の秩序」を爆破させる強力な時限爆弾を内包している。国家を混沌とさせるものは、国家の秩序そのものの中にあるのだ。

 玄月氏は、「在日」や「韓国」人、中国人などがせめぎ合って生きる、君が代を歌わない民衆レベルのpublicを創造したのだった。天皇制的「公」に対峙する民衆の「公」をどのように構築していくか。在日朝鮮人作家玄月氏の今後に期待したい。(文中の「韓国」は編集部)

本のプレゼント

 兜カ藝春秋の寄贈により、芥川賞受賞作「蔭の棲みか」を抽選で、5人にプレゼントします。応募ハガキに、〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号を記し、本紙日本語「文化」担当宛。

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