わがまち・ウリトンネ(70)

宮城・多賀城、塩竃(1)


名前呼ばれず全て番号、冬でもはだし
海軍工廠建設に3000人

 宮城県には現在、約4200人の同胞が住んでいるが、その75%は仙台市に暮らす。しかし、かつては、同市と隣接する多賀城市と、塩竃(しおがま)市に多くが住んでいた。解放(1945年8月15日)前、そこに多賀城海軍工廠(しょう)建設に従事した同胞の飯場があったからだ。

 44年6月に兵庫県から塩竃市に移り、以来55年間この地に住む朴基用さん(77)は、海軍工廠の建設と同胞との関わりについてこう語る。

 「工事が始まったのは42年からです。その前年、日本の陸・海軍は、侵略戦争をアジアから太平洋へと拡大する意思を固め、海軍は、多賀城に海軍工廠を建設することを決めた。場所は現在の東北管区警察学校と陸上自衛隊多賀城駐屯地。建設には海軍の軍属として連行されてきた同胞と、北千島の軍事施設工事完了後、ここに連れてこられた同胞らが動員された。その数は約3000人と言われ、建設現場周辺の多賀城市と塩竃市内に飯場が設けられた。彼らは最悪の条件下で働かされた」

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 軍属の名のもとで実施された朝鮮人強制連行も、募集の名目で始まった連行同様、39年から行われた。連行先は日本だけでなく中国、東南アジアにまで及んだ。公安調査庁「在日朝鮮人の概況」(53年)によると、連行者数は36万4000人、死者、行方不明者は14万人にのぼった。日本では、横須賀、呉、佐世保、舞鶴、大湊など海軍施設部に連行された。

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 多賀城海軍工廠建設は、横須賀海軍施設部が大林組、菅原組などに発注した。内容は施設の造成、整地を行うために、建設予定地の北側の山を崩し、そこから出た土で南側の田を埋め、中央に道路を造ったり、鉄道の引き込み線を敷設することであった。また、軍用地と民有地の境界線として周囲に堀を掘ったりもした。

 75年の朝・日合同による朝鮮人強制連行真相調査団の調査で、ある同胞はこう証言している。

 「1年間まったく風呂に入れなかったばかりか、日常作業の後に手や足を洗うことも許されなかった」、「衣服も支給されず、冬でも裸足」、「名前を呼ばれたことは一度もなく、番号で呼ばれた」、「朝早くから暗くなるまで監視付きで働かされ、疲れてフラフラするとカシの棒で殴られた」

 44年7月には、横須賀海軍施設部の菅原組配下、新川組多賀出張所の同胞労働者360人が、雇用期間の満了にともなって帰還を要請し事業主、警官と争ったが、海軍と憲兵の弾圧で期間を1年間延期され、6人が逮捕されるという事件も起きている。 (羅基哲記者)

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