古典だというだけで、正確ではないイメージが常に先行しがちであるが、生きている人間が多様かつ複雑であるかぎり、その反映として物語に描かれる人物像もまた然り、女性像だけが除外されるはずもない。ただ単純に儒教の礼教性だけを念頭に置いて、古典に登場する女性像は家父長制度に従属、それをただ諦観し、無抵抗と思うのは早計に過ぎるだろう。貴族を除く民衆のレベルでは、儒教的な建前は生活の必然の前にしばしば崩れ去るのだ。当然、フィクションの世界である物語の中では、より大胆な女性像が創造された。「春香傳」の春香は自分を捨てていこうとする恋人の前に、プレゼントをぶちまけ、髪をかき乱し、スカートの裾を引きちぎり、恋人を拳で殴りつけ詰め寄るのである。木の陰で、ひっそりと涙ぐんだりはしない。
このような強烈なヒロイン像だけではなく、一見すると体制と因習にこのうえなく従順そうに見せながら、自分の幸福のために積極的に行動するヒロインも多く描かれている。「續三綱行實圖」に美徳として紹介される、夫や姑、舅のために自ら犠牲になり、殉死もいとわない「貞烈婦人」像とはまったく異なる女性像である。
たとえば作者未詳の「玉娘子傳」では、ヒロイン玉娘の行動が目を引く。冤罪で投獄された婚約者を救うため、婚約を破棄しようと言う親の命に逆らい、単身、男装して面会に訪れる。看守たちに薬入りの酒を飲ませ、婚約者には今ここで自分と入れ替わらないと自殺する、と喉に短剣をあてて脅す。裁判では正体を明かし、獄に乗り込んできた時とはうってかわり、か細い声で涙ながらに事の顛末を訴える。まさに、女は力も知恵も勇気もなく、ただただ弱い存在だという男たちの「認識」を逆手に取り、「そんな取るに足りない存在が、婚約者のためだけにここまでやってきた、嘘であるはずがない」という「感動」を引き出すのに成功する。命がけの「か弱い女の身で」作戦が功を奏し、晴れて婚約者は釈放、玉娘は「自分が結婚したいと思った」男と結ばれる。
因習や差別が、資本主義的な収奪の道具にされ目に見えにくくなっている現代、現実に生きる私たちは、玉娘よりももっと緻密な戦略を持たなくてはならないだろう。
(朝鮮大学校文学部非常勤講師) |