わがまち・ウリトンネ(69)

京都・東九条(5) 


一番の問題は高齢化/若い人が子供連れて戻ってきてくれれば

 今回、東九条トンネを案内してくれた金守一さん(77)が日本に来たのは1945年6月。徴用先の横須賀の海軍工廠(しょう)に行くはずだった。「でも途中で逃げたんです」。そして2ヵ月後に解放を迎えた。

 50年代初まで丹波に住んでいたが、子供が病気になり、京都市内に出てきた。東九条に移ってきたのは56年。子供の世話をしながら友禅工場、大阪の鉄工所などで働いた。

 崔順岳さん(86)は先に日本へ来ていた夫を頼って、10歳になる息子の手をとりやって来た。

 「28歳の時です。それから今まで一度も故郷慶尚南道の土を踏めずにいます」

 高五生さんは九州の炭鉱に連行され、大阪に逃げていた父を頼りに来た。

    ◇     ◇

 金さんは、「65年に『韓日条約』が結ばれた後、『協定永住』に反対し、朝鮮籍を取り戻す運動が盛んに行われました。私も先頭に立ちました。市庁や区役所にもよく行きましたよ」と当時を振り返る。

 「あの頃はトンネにも活気がありました。6、70年代が一番良かったんじゃないでしょうか」と崔さんも話す。

 72年に7.4南北共同声明が発表された時は、総聯も民団も関係なしに同胞宅を訪ねたという。

 「同胞の家を訪れるのが日課でね。自宅にうかがうのは仕事を終えてなので、たいがい夜になります。話がつきないため、いつも帰りは11時、12時になったものです」

 崔さんは総聯や朝青で働く人たちの食事の世話もした。他の地方からやってきた若者たちにも親身になって食事を世話した。

 今はそれを、高さんが受け継いでいる。

 「総聯南支部で働く活動家は、朝出ていっても、昼には必ず戻ってきます。高さんが作ってくれる食事を楽しみにしているんですよ」(金さん)

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 80年代に入ると、同胞が散り散りになったこともあって、トンネの活気も少しずつ失せてきたという。

 6、70年代には、月に一度は必ずトンネの集まりを開いていたが、今はそれもむずかしい。

 一番の問題は高齢化である。少し余裕ができると、若い人たちは外に出て行ってしまう。朝鮮に帰国した人も少なくない。当時活躍していた人も多くが亡くなっている。

 「出ていった人たちが子供たちを連れて帰ってきてくれればいいけど」

 夕暮れの街で金さんがつぶやいた。 (この項おわり=文聖姫記者)

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