従軍慰安婦・太平洋戦争被害者補償対策委
元「慰安婦」の実態調査
218人の被害者明らかに
連行当時の年齢 10代が最多、若い既婚者も 募集・連行形態 慰安所の配置地域 慰安所生活 戦後の被害実態 3月30日から中国・上海で開かれた「従軍慰安婦」問題に関する国際シンポジウムで朝鮮の「従軍慰安婦・太平洋戦争被害者補償対策委員会」は、「朝鮮の日本軍『慰安婦』被害実態に関して」と題する報告書を発表し、朝鮮に218人の被害者がいることを明らかにした。朝鮮の元「従軍慰安婦」に関する調査は、93年8月に「日本帝国主義の朝鮮占領被害調査委員会」が発表した中間報告があり、その時は、131人の被害者の存在が明らかにされていた。 日本帝国主義の残虐行為の中で、国家と軍部の公権を発動して20万人の朝鮮女性をはじめ、アジア諸国の女性を連行して「軍隊を慰安する」という名目の下に性奴隷生活を強要した行為は、近代史と戦争史になかった極悪非道な反人倫的な犯罪である。 朝鮮では92年5月3日、平安南道大同郡に住む李京生さんが12歳の時(29年)に連行され、慶尚南道昌原郡の軍需工場で「慰安婦」生活を強要されたと初めて告発した。 現在まで朝鮮で明らかになった元「従軍慰安婦」被害者は218人で、そのうち43人が公開証言している。 生存する元「慰安婦」被害者たちを対象に行った調査結果は、以下の通り。 (1)12〜15歳 34人(全員未婚者) (2)16〜19歳 92人(既婚者6人) (3)20〜24歳 54人(既婚者7人) (4)25〜29歳 9人(未婚者1人) (5)30歳以上口2人(全員既婚者) ※上述の191人以外の人は死亡、記憶喪失、その他の理由で連行時の年齢を確認できなかった。 以上の断片的な統計資料は、日本政府と軍部が募集対象を若年の未婚者に規定し、需要によっては若い既婚者たちも手当たり次第に連行したことを物語っている。 募集および連行は、日本政府と公権力を背景にして、およそ4つの形態で行われた。 (1)良い働き場所を斡旋(あっせん)してやるとだまして「慰安所」に連れて行き、抑留した後に「慰安婦」生活を強要した。 (2)居住地あるいは旅行途中に拉致して強制連行した。 (3)「挺身隊」の名目で募集し、後に「慰安婦」として再び強制連行した。 (4)借金の代わりに売られ、民間業者に渡された。 218人の被害者中、形態としては(2)が96人でもっとも多く、その次は(1)で74人、ついで(4)、(3)の順となっている。 被害者たちの証言で明らかになった日本軍「慰安所」の位置は、だいたい次の通りである。 咸鏡北道慶興郡青鶴里、咸鏡南道豊山郡杷撥里、慶尚南道昌原、全羅南道木浦、中国のハルビン、上海、天津、南京、牡丹江省、奉天(瀋陽)、黒竜江省の老黒山周辺、小興安嶺脈周辺、錦州省、虎林、チチハル、石家荘、さらにフィリピン、インドネシア、シンガポール、台湾、ボルネオ、ミャンマー、日本など。 被害者及び遺族、目撃者の証言によると、日本は共和国で平壌、咸興、清津、羅南、会寧、新義州、恵山、南浦、元山などに、南朝鮮ではソウル、釜山、大邱、大田、光州、仁川、済州道などに「慰安所」を設けたことが明らかになっている。 朝鮮女性は、女性の尊厳と貞操はむろん生命までも、日本軍によって蹂躙された。 被害者たちの証言によると、初めて「慰安所」に到着すると大部分の女性たちは「新任は将校用」という「秩序」にしたがって将校から何日間も「性奉仕」を強要された後、兵士たちに渡された。 「慰安所」では「慰安婦」同士の会話や朝鮮語の使用が禁止されていた。また、食事時間と用便を足す時間以外は部屋から出ることができず、24時間、歩哨兵の監視下に置かれた。「服務期間」は、「慰安所」からの脱出が成功するか、あるいは死ぬまでだった。 「慰安婦」は、故郷にいる両親、親戚たちとの手紙のやりとりもできず、死亡しても日本軍は「死亡通知書」を発給しなかった。 このような中で「慰安婦」たちは、1人が1日に平均20〜25人程度、日曜日には40人以上の軍人を相手にしなければならなかった。 日本は、兵士たちが避妊具を使わずに、妊娠する「慰安婦」が生じた場合、その「慰安婦」に流産薬を注射した。 日本軍の乱暴な行為に、絶えられず自殺した女性たちもいた。日本軍は、妊娠した「慰安婦」たちの子宮をえぐりとったりもした。 朝鮮の数少ない生存者たちが「慰安所」で生き残り、帰ってきた経緯を分析した結果は次の通り。 (1)「慰安所」からひそかに逃亡した女性 51人 (2)連合軍の捕虜になって助かった女性 32人 (3)日本軍に見捨てられたが、生き残った女性 74人 (4)戦争の混乱からかろうじて生き残った女性 49人 (5)その他 4人(家族が行方をつきとめて、経営者に賄賂を使って逃れられた場合と日本の兵士と一緒に逃げたケース) 日本軍が帰還させた女性は1人もいない。 ・精神的および心理的な被害状況 生き残って故郷に戻ってきた被害者は、羞恥心のため、自分の過去を隠さざるをえなかった。絶対多数は親兄弟にも事実を打ち明けなかった。当時、彼女たちは平均年齢18歳から22歳の未婚者であって自分の過去を告発するなど考えも及ばないことであった。 彼女らは、やむなく自分が「慰安所」にいた期間、日本軍の「炊事婦」、「看護婦」、「洗濯婦」を務めたと偽らなければならなかったし、一部は故郷に帰らず、名前を変えて他の地方に住み着いた。 調査の過程で被害者のほとんどが人間忌避症、自信欠如症、憂うつ症などの症状に苦しんでいた。生存者のほとんどが結婚をしておらず、結婚した場合も、「慰安婦」生活の禍いがもとで家庭破綻をきたした女性も少なくない。 ・肉体的被害状況 公開証言をした34人を検診したところ、14人が30〜40代に子宮切除手術を受けており、19人がひどい帯下症状のため苦しんでおり、23人が心臓神経症、3人が言語障害および聴覚障害、28人が傷を持っていた。この他胸焼け、心臓発作、高血圧、神経痛などで、病気にかかっていない女性は1人もいなかった。 |