朝鮮の古い物語に描かれた女性像(上)/朴※(※=王偏に旬)愛

ほとばしる女性の躍動感、困難克復し因習に挑む


17世紀《崔陟博》  戦乱を背景に朝鮮、中国、日本、ベトナムへ

 具体的な現実との闘いは、その闘いの相手が誰なのか、何なのかがはっきりしている場合とそうでない場合によって、闘いやすくなったり、そうでなくなったりする。今を生きる私たちは、一見「強く」なり、どんなことも実現「可能」なように思えたりする。「強く」なり、何かを「実現」しようと思わない場合は、それはそれで、自由である。本人や他人に「不都合」がない限り誰も文句を言ったりしない。それが目には見えにくい「仕組み」にぴったりと合っていた場合などは、文句どころか美しい「賞賛」の言葉を浴びる場合が多いだろう。

 李朝時代の女たちは、もちろん貴族であるか、そうでないかによって多少の差はあるが、「対決」したり、「選択」したり、「先頭」に立ったり、とにかくイニシアチブをとるなどということはもってのほかであった。いや、はずだ。だが、どうしたことか、彼女らが最大の読み手であった古典小説の世界には、選択した結果である対決にひるまず、決してあきらめない、強く賢く美しいヒロインがたくさん出てくるのである。それは、そういう生き方が当時の読者によって支持され、受け入れられていたということだろう。また、何が自分の幸福を阻むのか当時は露骨によく見えていただろうから、因習に挑戦する物語のヒロインたちは、当時の女性たちにとっては自分の心の分身のようであったはずだ。

 15世紀に書かれた漢文小説の短編集「金鰲新話」の中の「李生窺墻傳」のヒロインも、パンソリで有名な「春香傳」のヒロインも、具体的な現実との対決を躊躇しない、どんな困難にもめげないすばらしく強い女性として描かれている。17世紀頃書かれた漢文の中編小説「雲英傳」では、登場人物たちが繰り返し封建的な差別について反抗する。

 古典小説は、その印象として夫唱婦随的な内容ばかりだと思われがちだが、それは大きな誤解だろう。たとえば、1621年、趙偉韓(1558―1649)作の漢文小説「崔陟傳」(奇遇録)は、実話に基づいた珍しい小説で、600編以上ある古典小説のなかでも、こんなに波瀾万丈な生涯を送るヒロインはほかにいないだろう。壬辰倭乱の戦乱を背景に、朝鮮、中国、日本、安南(現ベトナム)に及ぶ4ヵ国を放浪する崔陟一家の、離散と再会の物語である。ヒロインの名は玉英、裕福な名門貴族の娘でありながら貧しい崔陟との結婚を望み、自らプロポーズし、積極的に行動する。資産家との婚姻に執着する母を実力行使で、すなわち自殺未遂事件まで起こして自分の意志を貫こうとする。婚約し、崔陟が出兵した後、戦乱に巻き込まれた際もいち早く義父母を逃し、自分は男装する機転も持ち合わせている。また、日本兵に捕われ日本に売り飛ばされてもあきらめず、親切な老日本人に取り入り、男装のまま少年と思い込ませ、商船に一緒に乗り込み世界中旅した果てに、安南で崔陟と再会する。この再会まで玉英は必死にあきらめず、機知と勇気で困難を乗り越えたのだが、崔陟の方は焼け落ちた村と女子供の遺体を目の当たりにして絶望のあまり自殺を図る。たまたま通りかかった明の兵士に助けられ流れるように明国へ行き、なりゆきのまま安南に到着したのだった。中国で居を構えた2人は息子を得て一時幸福に暮らしたが、モンゴルとの戦いにまた崔陟が朝鮮に出兵し、行方知れずになってしまう。勇敢な玉英は、反対する息子とその嫁を説き伏せ朝鮮に帰国することを決意する。船を買い、物資と人を集め、息子夫婦には朝鮮語と日本語を教え込み、朝、日、中の民族衣装を準備させる念の入れようである。海賊に襲われ、無人島に漂着するも、世界の海を旅した経験とその大胆さで玉英は、無事故郷にたどり着く。本当の一家再会である。強固な意志と才覚で、戦争がもたらした逆境と困難を克服し、自分に有利な方向へと運命を切り開いた玉英、これは17世紀当時において新しい女性像の創造であり、その後の古典小説のヒロイン像にある一定の示唆を与えたものだと言える。

 自分が闘う、自分が決める、自分が乗り越えてゆく。封建的因習のような目に見える敵とも、運命としか言いようのない不可抗力な目に見えない敵とも雄々しく闘い、「幸福」という勝利を手にした玉英。作者は小説の題名を「玉英傳」にすべきだっただろう。
(朝鮮大学校文学部非常勤講師)

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