わがまち・ウリトンネ(66)

京都・東九条(2)


60年代半ばから土木工事増え生活潤う
金も労力も学校建設に


 「祖国解放直後から1950年代半ばにかけて、トンネの同胞たちの生活は本当に悲惨でした。そのため、59年に帰国の道が開かれた時は、多くの同胞がわれ先にと帰って行ったものです」

 56年から東九条に住む金守一さん(77・写真左)は、こう当時を振り返る。当時は同胞が集まる支部事務所すらなかった。

 「今の事務所は、ある同胞が帰国するのに際して住んでいた家を譲り受け、建てたものです」

 帰国船が盛んに往来していた60年代前半、最も切迫していたのが学校の建設だった。

 解放後、同胞の子供たちは日本学校の教室を借りるなどして国語(ウリマル)や歴史を勉強したが、49年の「学校閉鎖令」によって中断する。その後、個人の自宅などで勉強は続けられ、帰国船が運航し始める直前には、古鉄業を営む同胞のバラックを仮校舎にして学校が運営された。

 娘を通わせた高五生さん(78・写真中央)の記憶によれば、当時の生徒数は25人ほどだったという。

 そんな頃、子供たちのためにちゃんとした校舎を建てるべきだ、という声があちこちから聞こえ始めた。

 金さんは、「学校建設で中心になったのが東九条の同胞たちです。パチンコ屋を営む人もごくわずかいましたが、商売をする人はほとんどいませんでした。みんな日雇いなどをして少しずつ貯めたお金を惜しげもなく出し合ったのです。もちろん、実際に建設にあたったのも同胞たちでした。高さんのご主人も先頭に立って頑張った1人です」と話す。

 「その頃、私はバタ屋をやっていました。子供たちを食べさせるのに必死でね。夫が学校の建設現場に行ってるなんて知りませんでした」と高さん。その夫も72年に亡くなった。

 こうして60年代初、勧進橋町に建てられたのが、京都朝鮮第1初級学校である。

    ◇     ◇

 だが皮肉なことに、東九条の同胞数は60年代半ばを境に減少し始める。

 「東海道新幹線が59年に着工したでしょ。東京オリンピックもあったし、高速道路もいっぱいできた。それで増えたのが土木の仕事です。東九条の同胞の中には、土木業に携わる人が多かったので、一気に仕事が増えました」(金さん)

 それで多少余裕のできた人々が、他の地域に新しい家を建てて移っていったという。

 「伏見にも多くが移りましたし、南山城や、同じ南区でも西の方に移る人が少なくありませんでした」と高さんは言う。

 現在、南区の東と西の間で同胞数の逆転現象が起きているという。(文聖姫記者)

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