わがまち・ウリトンネ(65)

京都・東九条(1)


「労働市場の最底辺を構成」
東海道線、東山トンネル工事に動員

 JR京都駅から南へ5分ほど歩いた所に、観光地京都とはまったく違った様相を見せる地域がある。東九条(京都市南区)。地元の同胞たちが「トンクジョウ」と朝鮮語読みで呼ぶこの場所は、京都でも有数のトンネだ。では一体、いつからこの地域に同胞たちが集中して住むようになったのか。

 「私がここに移ってきたのは1956年なので、以前の歴史はよく知りません。だが、聞くところによれば、その昔、東海道線の東山トンネル工事に同胞たちが集団で動員されたのが発端だそうです。人々は、工事が終わった後もそのまま居着いたわけです。日本人が経営する工場で働いた者も若干はいたみたいです」

 トンネの歴史に詳しい金守一さん(77)はいう。

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 「史料京都の歴史」第13巻南区(京都市、平凡社)によると、東海道線東山トンネルが完成したのは1921年。同書にはこう書かれている。

 「東海道線東山トンネルの工事にはかなりの朝鮮人が働いた。関西地方は在日朝鮮人労働者の先駆的集住地で、すでに『日韓合邦』直後の時点で宇治川電気発電所工事などにかなりの朝鮮人労働者が流入していたが、彼らがそのまま東山トンネル工事に従事した。故国の朝鮮では日本の植民地支配のもと、とりわけ事実上の土地収奪を意味した総督府による『土地調査事業』により生業の道を失った朝鮮人の多くが日本に流入し、東山トンネル完成後も日本に定住して、低賃金労働者として日本の多重的労働市場の最底辺を構成することとなった。東九条を中心とする鴨川西岸地域は、こうして京都における在日朝鮮人の集住地の一つとなっていった」

 
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 解放(45年8月15日)をトンネで迎えた同胞たちの生活は、ご多分に漏れず苦しいものだった。大部分が日雇い、土木工事に従事し、バタ屋、養豚業を営む人もいた。

 「闇米売り、どぶろくの密造もあちこちで行われていました。京都駅前では、闇米の商売が盛んでした」と崔順岳さん(86)。

 「遠く福井、岐阜、豊橋まで行って米を手に入れ、闇市で売り、小売りもしました」と当時を振り返る高五生さん(78)。

 もちろん、警察につかまり投獄される場合もあったという。

 「京都駅が近づくと、車内に入って来た若者が『警察が張ってる』という情報を知らせてくれたこともありました。それを聞くと、汽車のドアから米を捨て、後で拾いに行ったものです。中には誤って汽車から落ち死ぬ人もいました」

 当時の苦労を1つ1つ思い出すかのように、高さんはとつとつと語った。 (文聖姫記者)

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