近代朝鮮の開拓者/映画監督
羅雲奎(ラ ウンギュ)
羅雲奎 (1902〜37年)18年、間島の明東中学に入学、21年から23年に入獄した後、24年に脇役俳優となる。26年には、「アリラン」を製作、上映し大きな波紋をなげる。映画製作中の37年に肺結核で死去。 |
初めて「活動写真(映画)」が紹介されたのは1903年の事であるが、それ以来、チャップリンの「黄金狂時代」など、無声映画が輸入され、22年から「国境」「かごの中の鳥」などが作られた。そんななかで、羅雲奎が脚本を書き、監督し、主演を演じた「アリラン」が26年10月頃に上映されるや、たちまちソウル市内の話題を独占し、鐘路の団成社の前は黒山のような人だかりができた、と言われた。 3.1独立運動に参加して投獄され、残酷な拷問によって精神に異常をきたした主人公が日本帝国主義の手先を鎌で殺し、縄に縛られてアリラン峠を越えていくラストシーンは圧巻である。客席は涙の海となった。この映画のテーマソング「アリラン」も、人々の心に深くしみ込んでいったのである。羅雲奎がいなかったら、当時の民族映画の発展は「はるかに遅れただろう」と言われた。これより29年の「おしの三竜」、32年の「主なき渡し舟」(写真)、そして35、36年の「河向うの村」、「五夢女」まで、彼が36歳の若さで亡くなるまでに全ての情熱をそそいで監督、主演し、脚本を書いた映画は30編ほどになる。日帝の厳しい検閲をくぐり抜けながら、社会性と芸術性を両立させ、かつ財政難に苦しみながら、彼は映画を作り続けた。 彼が1週間、寝食を忘れて座り込めば、シナリオ1編ができあがり、同時に配役と撮影計画までできた、といわれた。が、このような無理が続いて、肺結核を悪化させてしまう。植民地時代の生活の乱れもそれに加わった。 ◆―――――◆
その後、映画生活に入った彼は、低い背丈、首が短く、頬の骨が厚く、かすれた声――つまり美男子でなく、必然的に性格俳優の道を歩み、1世をふうびするのだ。彼は、15歳のとき年上の女性と結婚して2男をもうけたが、家庭を顧みる性格ではなかった。 朝鮮民主主義人民共和国では、彼の生誕60周年を記念して「羅雲奎とその芸術」が出版されており、また有名な女優の文芸峰も、かつて共に仕事した日々を懐かしく回顧している。 |