わがまち・ウリトンネ(60)
大阪・猪飼野(5)
まず腰を落ちつけ東京、名古屋へ
1枚のせんべい布団に5〜6人
猪飼野で暮らす同胞は日に日に増え、そして彼らは生活の基盤をこの地域に築くようになる。しかし、それはあまりにも貧弱なものであった。
同胞の多くは、下宿屋で寝泊りした。仕事は宿の親方から紹介してもらったり、先に猪飼野に渡ってきていた兄弟や親、親戚を頼って探すというのが普通だった。
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メ モ 1927年に出された「バラック居住朝鮮人の労働と生活」には、26年7月現在、鶴橋警察署管内に171軒の同胞下宿業者が存在し、2363人の同胞を宿泊させていたとの記述がある。1戸の平均下宿人員数は、14人にものぼった。 また28年6月末には、猪飼野で所帯を持つ同胞は30世帯、176人に達した。(「本市に於ける朝鮮人の生活状況」) |
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大阪で生まれ、33年から67年間、トンネで暮らす黄河石さん(76)は、当時の生活状況についてこう振り返る。
「例えば、1階が4畳半と6畳、2階が6畳ぐらいの下宿屋に、数十人が詰め込まれて暮らしていた。今では考えられないかもしれませんが、1つのせんべい布団に5〜6人で寝るのは当たり前。テーブルはミカン箱。飯はもらい飯…。わずかな家賃も払えず、先住者にいつまでも甘えていてはいけないと、再び放浪の宿探し、職探しに出る人もいました。つまり済州島から来た多くの人が、とりあえず猪飼野に腰を落ち着け、その後、兵庫や名古屋、東京へと流れて行った。そのため下宿屋は、同胞の出入りがとても激しかったのです」
一方、夫婦で渡日した同胞は、下宿屋ではなく、どうにかして普通の家に住もうと努めた。
今もそうだが、日本人の家主は同胞には家をなかなか貸さない。しかし、ここ猪飼野、とくに路地裏は低湿地帯で、大雨が降ると床上浸水はあたりまえだった。そのうえ日本人の借り手も少なかったため、どうしても家賃がほしい家主が、仕方なく同胞にも家を貸したという。だが同胞に貸された家は、古いバラック同様のものか、環境が悪いかのどちらかであった。
元の朝鮮市場があった所も、海抜1〜2メートルの低地で、大雨が降れば、すぐに冠水した。
黄さんは、「生活は厳しかったが、それでも異国の地で生きるために、同胞たちは助け合って暮らしていた。米を貸したり借りたりするのは当たり前だった。風俗習慣も同じで、助け合いの習慣が生きていた。それが早くからここで生活の基盤を築き、トンネを形成する要因の1つにもなったのではないか。その助け合いの精神は現在、若い世代へと受け継がれてい
る」と語る。
(羅基哲記者)