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100年目の春 海外同胞らの思い 「必ず、一つの民族に」

 朝鮮民族の運命を奈落の底に突き落とした日本の植民地支配。今年は「韓国併合」条約から100年目に当たる。そんな節目の年の4月の春を、多くの海外同胞らとともに平壌で迎えた。強盛大国建設に一丸となって進む朝鮮の活気ある姿と平和なたたずまいに、海外同胞らは力強い励ましと希望を得ているようだった。そんな旅の報告をしたい。

 9日、さくらが満開の東京を飛び立ち、空がどんよりと曇る北京へ。市内は北京五輪の舞台となった巨大な建物群が目立つが、ガイドの郭さんは「全国で乱開発が続き、雲南省では水資源が枯渇して、子どもたちも水を自由に飲めなくなった」と顔を曇らせた。1年中、晴れた空を見ることがなくなって久しいという北京の深刻な環境問題は、「朝鮮にも影響を及ぼしていないだろうか」という杞憂も募らせた。翌朝、再び首都国際空港へ。

 高麗航空のカウンターでは、欧米圏からの来訪者であろうと思わせる上品な女性が、重い荷物を抱えて順番を待っていた。声をかけるとカナダのトロントからすでに10時間の空の旅を経て、平壌に向かうという全順暎さん(82、写真)だった。カナダで長年祖国統一のために尽力して95年に死去した元ニューコリアタイムズ紙社主・全忠林氏の夫人である。夫妻は二人三脚で統一運動に身を投じ、苦難の人生を分かち合ってきた。

 夫人との出会いは偶然が重なり、飛行機のなかでも隣同士となった。記者としてこんなチャンスを逃す手はない。機上でじっくりと話をうかがった。

 抗日運動の拠点でもあった中国東北地方の北間島の龍井市明東に生まれた夫人は、抵抗詩人・尹東柱や文益煥牧師と同じ村に生まれ育ち、兄は東柱の同級生だった。平穏な暮らしは長続きせず、日本帝国主義の引き起こした満州事変(1931年)を前に徹底した血の弾圧が始まった。なんとか生き延びた全さんは、解放後の47年に結婚。その4日後に夫妻は平壌に移り、6カ月後に家族の住むソウルへ。その後、朴政権の軍事クーデターで狂乱的な「アカ狩り」が始まるなかで62年、カナダに亡命。以来、約半世紀にわたる異郷暮らし。同時に夫妻は北米州における統一運動を担い続けた。72年の初訪朝後、数え切れないほど訪問を重ね、主席とも3回会見。89年の文益煥牧師との会見の際には席をともにしたという。

 全さんは語る。

 「私たちの世代は、日本の植民地支配の残忍な歴史を知る最後の世代。日本は、固有の歴史と高度に発達した文化を持つわが民族全体を丸ごと植民地にしてその文化を根絶しようとして、人々を日本の次なる新しい戦争の道具として使い捨てた。しかも、戦後の冷戦体制は朝鮮民族を分断し、米帝国主義による朝鮮戦争まで引き起こした。2つの侵略戦争はいまなお、何代にもわたって子孫の生活に、深い爪跡を残している。だからこそ、朝鮮の存在はますます大きくなっている。超大国の力の支配を退け、自主的な統一国家を築くには、朝鮮の回りに全民族が結集していく道しかない」と。

 1時間半のフライトの間、痛苦に満ちた全さん夫妻の歩みが語られていった。(朴日粉記者)

春の平壌を取材して 平壌で出会った海外同胞たち 「祖国とともに私たちはある」

[朝鮮新報 2010.4.28]