詩「母について」 母は強制連行の人たちに深夜食料を差し入れしていた |
母が息を引き取る当日 人のためにやれることで
そして母が自分の人生で一番悲しかったことを その人たちに
だけど たくさんの悲しみが そんな母を持てたことを 私のこの拙い詩が、みなさまの目に留まることは全く予想もしていなかった。この作品は昨年3月、私の所属する美術団体の展覧会場で発表した、5編の詩と写真の組み合わせによる作品の一編である。その作品の反響の大きさに、今あらためて驚いている。なぜなら、いわばありふれた日本のひと昔前の平凡な母親であり、取り立てて母の偉大さを語る意図は毛頭なかったからだ。
明治に生まれ、働きづめに働き続けてその一生を終えた母の人生は、とくに農村に生まれた女性の典型的な一人に過ぎない。とはいえ、私が母に対して誇りを持っていないかというと、そうではない。その生きざま、死にざまを通して、人として何が大事なことであるかを考えることの大切さ、人のこころを思いやる事のできる人間であらねばならないと言うことを教えてくれたからだ。だから、私は母の遺言通り、人がよろこんでくれるために、自分は何ができるか≠いつも考えながら生きようと思っている。私がまだ未熟ゆえ、それがいつも実践できなくても、少なくともそのことを考えられる人間に私を育ててくれたことに対して、本当に感謝をしている。 私の母は、前述のように明治の末、1907年に、雪深い新潟県栃尾という山村に生まれた。わずかばかりの山田(棚田)と、養蚕で暮らしを営んでいたと思う。確かな記憶ではないが、6人ほどの女の子ばかりの、下から2番目ぐらいだったと思う。しかし、当時は大家族が豊かに暮らすゆとりもなく、物心ついた小学校2年生の中頃、地元の紡績工場に奉公(住み込みで働く)に出される。 当時の日本は、絹織物と銅の輸出で外貨を稼ぎ、近代化という名のもとの富国強兵への道を歩んでいた。そこでの過酷さは、例えば「女工哀史」とか、「あゝ野麦峠」というルポルタージュや小説でも語られている。母は、朝6時頃から夜の10〜11時まで働き、休日は盆と正月だけだったそうだ。また紡績はたくさんの水を使うが、冬の栃尾は厳寒の地だから、本当に冷たい思いをしたと語っていたことがある。 その後年頃になって、父と結婚するが、どういうきっかけで結婚することになったかは私から聞いたことはない。しかし私の妻が聞いたところによると、「嫁に来て初めて父の顔を見た」と語っていたそうだから、親同士が勝手に決めた結婚だったようである。(しまくらまさし、日本ジャーナリスト会議会員) 「人のためにできることをやりなさい」 孤児を引き取って育てた母 [朝鮮新報 2009.1.30] |