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「人のためにできることをやりなさい」 孤児を引き取って育てた母

 私は昭和22年(1947年)生まれだが、とにかく私が物心ついた時から母は働きづめだった。対して父は家でごろごろ、夜になると酒をあおり、酔っては人格が一変して、母や周囲に怒鳴り散らしていた。当時母は新聞店をやりながら食堂もやっていた。朝早く新聞の配達を終え、日中は農作業、夜は食堂の仕事と、本当に休む間もなく動き回っていた。

 そんな母だが、朝早く新聞配達を終え、朝食後のわずかな時間、私に毎朝新聞を読んでくれた。私が5歳ぐらいの時からはじまり、中学に入学する頃までこの習慣は続いた。母が勉強の代わりに新聞を読んでくれたことは、私の人生にとても大きな影響を与えてくれている。それは世の中の動きや政治の動きに強い関心を持って見る眼を養ってくれたからだ。

 母の生きざまについて、大変印象深い想い出がある。私が小学校に入学した頃、一人の男の子を母は引き取る。その子がわが家に来て、母は伸び放題だった髪の毛をバリカンで刈ってあげた。そしたらフケが一センチほども積もっていた。その子はある農家の犬小屋に飼われて≠「た。戦後とはいえ、まだ農村にはこうした奴隷≠フように使われている人たちが残っていた時代だ。もちろん学校にも行かせてもらえず、風呂にも入れてもらえず、冬でも裸足で農作業させられ、夜は軒下に金網が張ってある犬小屋に藁をしいて寝る…。母はそんな子を見かねて引き取った。この子と一歳違いの私の兄と、母はいつも分けへだてなく育てていた。そんな母の口癖は「子どもを一人育てるのも、二人育てるのも同じだから」だった。

 さて、詩の内容についてお話したいと思う。あの詩の内容は、母が亡くなる当日私に語った内容そのものである。今から14〜15年前のことだが、とにかく一日かけてそのことしか言わなかったから、今でも鮮明に覚えている。

 12月23日は休日だったから、私は病院に寝泊まりして看病している兄に代わって、看病を交代するために東京から長岡に向かった。午前10時頃病院に到着したが、到着した瞬間から、母に突然生気が戻り、饒舌になった。看護婦さんが驚いていたから、よほど私の到着を心待ちにしていたのだろう。私も本当に病人なの?≠ニ思うぐらいだったが、とにかく母が話すことは、「人のために、おまえができることをやり続けなさい」ということだけだった。その会話の中で自分が一番悲しかったこととして、戦争中の話をしてくれた。

 私のふるさとに、朝鮮の方が強制連行されて働かされていたこともその時初めて知った。その日の夜7時頃、近所の方がお見舞いに来てくださったが、お見舞いに来てくださった方の身体の具合をむしろ母が気にして言葉をかけていた。母のにこやかに談笑する姿を見て、私は田舎の実家に夕食と入浴のために帰ることにした。夜9時、その実家で入浴中、病院からの電話で母の死を知らされた。まるで、私の帰郷を待って、この詩で書いた内容を伝えるために命を持ち続け、それを語り終えた事で全てを終えたかのような死にざまだった。

 日本と朝鮮の方々との間には、不幸な過去もあった。個人がどんなに優しくあろうと思っていても、戦争は人を狂気に駆り立てる。だから戦争はあってはいけないし、なくすためにいつも最善の努力をするのが人間であり、人間だからこそその努力もできる。もし朝鮮半島ご出身の方がこの詩を読んで感動してくださるのであれば、私の母個人に対してではなく、本来日本人の多くが持ち続けた人に対する優しさ≠ノ対してであってほしいと心から願っている。

[朝鮮新報 2009.1.30]