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東京中高吹奏楽部創部60周年記念演奏会 輝かしい歴史、苦難を乗り越え

OBたちの温かい支援に感謝

演奏会には東京中高吹奏楽部とOB楽団の100人が出演した

 さる6月21日、東京朝鮮中高級学校吹奏楽部創部60周年記念演奏会(主催=同実行委、金光男会長)が東京朝鮮文化会館で行われ、約230人が会場に訪れた。

 わが校が創設されたのは1946年10月5日。48年の同じ日に高級部が併設され、翌49年、吹奏楽部は他のどのサークルよりも先に部活動を始めた。長い歴史を持つわが吹奏楽部だが、その60年の歴史は平坦なものではなかった。

 過去の輝かしい事跡とは裏腹に、私が高級部に入学した99年の吹奏楽部は、高2、高3合わせてわずか5人。昔日の面影はなかった。私を含む新入生の全吹奏楽経験者ら20人は、6月の対外行事に借り出される形での入部となった。

 在校時には中等教育実施55周年記念公演の練習で忙しかった。吹奏楽部はじめ舞踊部、合唱部、民族管弦楽部では当時、かなりの作品を仕上げていた。その年の芸術コンクールでは4つの部が全て「優秀作品」の舞台にあがることができた。

草創期の吹奏楽部

 朝大卒業後、教員として再び母校に赴任し、指導教員を拝命したとき、部の様子は変わっていた。部員数は50人を超え、日本のコンクールにも積極的に参加していた。しかし、学区内の中級部には吹奏楽部がほとんどないため部員の多くは高級部で初めて楽器を扱う学生たちだった。

 部の指導教員が女性というのは60年の歴史上初めて、しかも、私は朝大理工学部の卒業生でもあった。 記念行事は、1部にOB会総会、2部に記念公演、3部に宴会という形で行われた。

 公演ではOB楽団(50人)による「万豊年」、在学生(50人)による「統一よ、統一よ」、OBと在学生の合同演奏「青山里に豊年が来た」など8曲が演奏された。

 実行委員会・金光男委員長の話にもあったが、昨今の厳しい情勢の中、部の運営の難しさはひとつや二つではない。吹奏楽部がこれからも存続し、発展繁栄していくためには、OBはじめたくさんの人たちの協力と支援の輪が必要だ。卒業生たちの在学生に寄せる大きな期待、そして彼らの温かい協力姿勢にいつも励まされている。

 東京中高生を愛する多くの同胞に感謝するとともに、その恩恵に報いていきたいと心から願っている。(黄慈玉・東京中高吹奏楽部顧問)

同胞史と歩んだ力強い響き

「万景峰」号入港を歓迎して(1971年)

 今年、東京中高吹奏楽部は創部60周年を迎えた。草創期、部員14人、楽器といえばトランペットとクラリネットなどわずかな数しかなかった。部員たちは、創部当初から「芸術宣伝隊」として、都内の初級学校はじめ数々の大会、集いなどで演奏し、同胞たちを励ましてきた。運動会ではトレパンに金色の帯をつけた吹奏楽部のファンファーレと楽隊を先頭に入場行進し、パレードもした。1959年から始まった帰国船の歓迎・歓送のための新潟での演奏会は73年まで続き、79年には「三池淵」号の新潟入港を祝い、30期の部員らが駆けつけた。

 また、祖国統一実現のための示威行進時にも日照りや豪雨をものともせず、楽器を吹きながら何千キロもの歩みを続けてきた。65年には「大音楽舞踊叙事詩」があり、朝鮮大学校、神奈川中高生とともに演奏、68年には大阪にまで出向き、出張公演した。

 叙事詩の最後を飾る「万豊年」は、吹奏楽部と民族管弦楽部、舞踊部、合唱部がひとつになり表現した、東京中高自慢の作品となった。他にも65年と72年には駒沢競技場でマスゲームが行われ、吹奏楽部は2時間もの演奏で成功に大きく貢献した。

運動会を大いに盛り上げた(2007年)

 草創期の吹奏楽部の夢は朝鮮の吹奏楽曲を演奏することだった。その願いが叶ったのは61年、初の学生芸術コンクールが開かれる際に、祖国から送られた「分団行進曲」が課題曲に指定されたときだった。部員たちは中央大会優勝を目標に練習に励み、各校では「打倒! 東京朝高!」を叫び、私たちと競っていた。

 他にも数々の輝かしい歴史をもつ吹奏楽部だが、卒業生たちの夢は、舞台で自分たちの演奏を披露することだった。そして2004年から定期演奏会を開き、今日にいたっている。

 OBたちは、これまでも後輩の指導補助やチャリティー演奏会などさまざまな形で部活動を支えてきた。朝高のひとつのサークルが、創部60周年を記念してこのようなイベントを行うのは素晴らしいことだ。卒業生の一人として、朝高吹奏楽部時代の思い出と数々の経験を、大切にしていきたいと思っている。(金光男 実行委員会会長)

感想文から 圧巻「青山里に豊年が来た」

記念CD発売 60年間、52曲を収録

[朝鮮新報 2009.7.10]