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〈インタビュー〉 布施辰治と朝鮮 孫の大石進・日本評論社会長に聞く@

「生きべくんば民衆とともに」

 布施辰治。朝鮮人から「義烈弁護士」「われらの弁護士ポシ・ジンチ(布施辰治の朝鮮語読み)」「解放運動者」と呼ばれ厚く信頼された日本人弁護士だ。「生きべくんば民衆とともに 死すべくんば民衆のために」を座右の銘として生きた。しかし、残念ながら、歳月の流れ、また冷戦的イデオロギーによる色眼鏡も邪魔をして、今日、彼について知る人はその業績に比してみた場合、決して多いとは言えない。 今回、在日朝鮮人人権協会の金東鶴事務局長が、布施辰治の孫にあたる日本評論社の大石進会長から祖父、布施辰治についての思い出や、考えについてインタビューする貴重な機会を得、同協会機関誌「人権と生活07年冬号」にその内容が掲載された。(編集部)

−幼少時に抱いた祖父、布施辰治先生のイメージは? また思い出などについて。

大石進さん

 大石 私が生まれた時、布施辰治は獄中なんですよ。私の名前が単純なのは布施辰治が関与しなかったからです。私の妹なんかは獄中から出てきたあとなので、優雅璃という難しい名前になっています。ですから私の出生時、布施辰治が収監されていなかったら、難しい名前をつけられていたか、あるいは私が亥(猪)歳でして、布施の長子が丙午生まれで丙午、第二子が申年生まれで申生ですから、もしかしたら豚生ぐらいにされていたかもしれません(笑)。

 辰治をめぐる私の最初の記憶は、布施辰治自身よりも布施の書斎、主のいない部屋にさむざむとしたベッドがあったことです。人の寝たことのないベッドが。

 一番濃密な思い出は戦時中に学童疎開で、辰治の家にあずけられたときです。当時、布施辰治は都落ちして鎌倉と逗子の間にある小坪という漁村に住んでいたのですが、そこに小学校3年の時に私だけあずけられ、祖父、祖母と私の3人で、それから一時は、布施の3男・杜生のつれあいの歳枝さんと布施夫婦と私の4人で暮らした時期もありました。1944年2月に山科監獄で杜生が殺されたのち、歳枝さんに一緒に暮らすよう声をかけたのでした。

1927年、極寒のソウルに朝鮮共産党事件の弁護に赴く布施辰治

 布施は食べるのが好きな人でとかく食べている姿が記憶に残っています。時には食べ物を取り合う喧嘩をしたりもしました(笑)。

 家には二つの扁額があり、「布施辰治法律事務所」「解放之先駆 是当事務所之使命也」と書いてありました。それを見ながら一体これはなんなんだということを訊いたり、それから大事にしている花瓶がありまして、これは何かと訊いたところ「これはね、昔、朝鮮でね、正しいんだけれども非常につらい思いをしている人の弁護をした時にね、お礼にもらったんだよ」と語られたことがありました。その花瓶は割れているんですよね。割れているものをつないで使っているんですね。「どうして割れているものを使うの?」と訊くと、「それは大事な思いがこもっているからだよ」と言われましたね。そういうやりとりを通して布施がどういう活動をしていたのか大体はわかるんですが、良くはわからなかったですね。当時は。

 それから戦争中は一番憎いのは米国ですから、布施辰治はご近所から米国のスパイにされていたんです(笑)。

−太平洋戦争中はソ連ではなく米国のスパイになってしまうんですね?

出身地や出身大学でも資料研究や記念行事が行われている

 大石 そうですよ。あの頃は。

 月一度駐在さんが監視に回ってきてね。これは治安維持法の前科者ですから当然なんですが、泥棒でもなさそうだしということで、そういうレッテルを周りの人から張られるんですね。そうすると私は、学校でとてもいじめられるんですよ。米国のスパイの家の子ですから(笑)。崖の上から突き落とされて学校を2週間ぐらい休むようなケガをさせられたりしたこともありました。だからひがみっぽくなってね(笑)。

 (布施辰治は日本が敗戦する前の10年以上、弁護士資格を剥奪され、戦後、資格を回復した。その後、阪神教育闘争や朝聯強制解散に関する裁判、秋田のドブロク事件等々、再び朝鮮人に関わる多くの裁判に関わった)

−その当時の思い出について

 大石 後は一緒に暮らしていなかったもので、あまりありません。そして私が高校3年生の時、辰治は亡くなった。私は法廷の布施辰治を見たことがないんです。私は法学部に進学したので、もう1、2年長生きしてくれれば、きっと法廷も傍聴にいったと思うんですよ。

 しかし、朝鮮人が関わると、生活事件でも治安事件に仕立てられてしまうという印象を強く持ってはいました。ちょっとしたことですぐ監獄に行く人が出てくるという感じは覚えています。

 【日本評論社】1917年創業。戦前の発行禁止、出版法による処罰、横浜事件による4人の逮捕などの苦難を乗り越えて、法・経・数・医などの分野の専門書・啓蒙書・教科書を発行する。大石進氏は「法律時報」「法学セミナー」誌の編集を担当したのち、1980年〜2004年同社代表。現在会長。中国浙江大学名誉教授。平和・民主主義・人権に強い意欲を持ち続ける出版社として知られている。

布施辰治の歩み

[朝鮮新報 2008.2.25]