布施辰治は「韓国併合」の1年後、「朝鮮の独立運動に敬意を表す」を書いた。 法廷では1919年の朝鮮人留学生による2.8独立宣言式で撒かれたビラが出版法違反だとして留学生らが逮捕・起訴された事件、義烈団事件、関東大震災の2日後に拘束され、天皇殺害を謀る大逆罪とされた朴烈、金子文子、朝鮮共産党事件、阪神教育闘争や朝鮮民主主義人民共和国の国旗掲揚事件、東京朝鮮中高等学校事件(GHQが禁止していた「新朝鮮」などの雑誌を作成していたとして同校生徒を検挙し、同校を家宅捜索したことに抗議した朝鮮人らが逮捕された)、台東朝鮮人会館接収事件(朝聯強制解散を理由とする建物接収に際し、抵抗した朝鮮人らが逮捕された)など朝鮮人に関わる大きな事件の数多くを弁護した。 法廷外においても関東大震災の時には、サイドカーに乗って震災直後の大混乱の中、東京中を回って、「自分の家に来たらなんか食べ物がある」と呼びかけ被害にあった人々を激励し、朝鮮人をはじめとした大勢の被災者たちに食料を振る舞った。 震災直後の朝鮮人虐殺に対し、「考えれば考えるほどあまりにも残酷な悲劇です。朝鮮同胞の6千人は殺害されました。彼らの魂は死んでも死にきれない無念さでいっぱいです」と語り(「関東大震災被災同胞追悼会」において)、直接原稿まで書いて朝鮮の新聞社に送り、朝鮮人に深く謝罪し、日本当局を非難した。 また、朝鮮水害罹災民救援運動を提起したり、「在日朝鮮人労働産業犠牲者救援会」を結成するなど法廷外での活動もまた極めて精力的なものであった。 このような布施に対し、多くの朝鮮人は「われらの弁護士ポシ・ジンチ(布施辰治)」と呼び、深い信頼を寄せた。 略歴
1880年 |
宮城県に生まれる |
1899年 |
明治法律学校に入学。在学中、朝鮮人や中国人留学生と交流 |
1911年 |
「朝鮮の独立運動に敬意を表す」を書き、検事局で取り調べを受ける(不起訴) |
1920年 |
朝鮮人留学生による2.8独立宣言のビラに対する弾圧事件(「出版法違反事件」)の二審で弁護人となる |
1923年 |
朝鮮人留学生の思想団体である北星会が朝鮮で行った夏季巡回講演会に弁士として参加。ソウルほか、南部各地で十数回講演。京城地方法院で義烈団員、金始顯の弁護
関東大震災の朝鮮人大虐殺について、自由法曹団の先頭にたって調査、抗議活動に奔走する。朝鮮人留学生主催「被殺同胞追悼会」で追悼演説
朴烈、金子文子事件(治安警察法違反→爆発物取締罰則違反→大逆罪)の弁護人となる |
1924年 |
日本の皇居に爆弾を投げた金址燮(義烈団員)の爆発物取締罰則違反事件で弁護人となる |
1925年 |
朝鮮水害罹災民救援運動を提起
朝鮮人暴動を想定した小樽高商軍事教練に対し抗議運動を行う |
1926年 |
金子文子の遺骨を引き取り、朝鮮の朴家の墓に埋葬の手続きをとる
労働農民党結成に参加(後に同党顧問)。日本労働組合総連合会長に就任 |
1927年 |
三重県木本町での朝鮮人殺害事件の真相調査を行う
京城地方法院で、朝鮮共産党事件の弁護 |
1929年 |
崔承晩と共に発起人代表となって「在日朝鮮人労働産業犠牲者救援会」を結成
東京控訴院の懲戒裁判所に起訴される(日本共産党員らが被告となった治安維持法違反事件〈3.15検挙〉の弁護活動における言動が不穏当、法廷の秩序をみだし、弁護士の体面を汚したとの理由) |
1931年 |
金漢柳らの治安維持法違反事件で弁護人となる |
1939年 |
日本労農弁護士団事件で上告棄却(懲役2年未決算入200日)となり千葉刑務所へ下獄する |
1940年 |
出獄 |
1944年 |
治安維持法違反容疑で収監された三男の布施杜生が京都山科刑務所で獄死 |
1945年 |
「出獄自由戦士歓迎人民大会」で歓迎のあいさつ。自由法曹団が再結成され、顧問となる。「布施辰治氏弁護士再開記念祝賀会」が開かれる |
1948年 |
阪神教育闘争時で検挙された朝鮮人らを被告とする軍事裁判で弁護人となる
国旗掲揚事件の弁護人となる
三鷹事件、松川事件の弁護人になる
秋田のドブロク事件(秋田県北部の鹿角でドブロクを造ったなどとして検挙された38人の朝鮮人を被告とする裁判)の弁護人となる |
1949年〜 |
深川事件、朝聯・民青強制解散事件、東京朝鮮中高等学校事件、台東朝鮮人会館接収事件などの弁護人となる |
1952年 |
メーデー事件、吹田事件の弁護人となる |
1953年 |
末期内臓ガンのため9月13日逝去(享年72)
(「布施先生記念国際学術大会の記録」所収、森正著「弁護士布施辰治による朝鮮民族の人権擁護と敗戦後の評価」の年表などをもとに作成)=なお、04年、南の政府から日本人として初めて「建国勲章」が贈られた。 |
[朝鮮新報 2008.2.25]
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