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京都・ウトロ問題 発端は日本による植民地支配 日本政府は歴史的認識を

 京都・ウトロ地区(京都府宇治市伊勢田町51番地)−日本の戦争責任がここでも問われている。第二次世界大戦中、軍用飛行場建設のためこの地に連れてこられた朝鮮人たちは戦後、何ら補償も受けることなく見捨てられ、苦しい生活を余儀なくされた。それから60年、住民らは今にも訪れかねない「強制執行の恐怖」に怯えながら生活している。(李泰鎬記者)

生活環境は劣悪

劣悪な生活環境はいまだ改善されていない

 住民らが最初に立ち退きを迫られたのは、1988年12月。当時、土地所有権を持っていた西日本殖産は、反発する住民ら(69世帯すべて)に対し立ち退きを迫る訴訟を京都地裁に起こした。

 京都地裁、大阪高裁は「ウトロ問題」の経緯をまったく無視し、「単なる土地所有権に関する問題」としてとらえ、住民に立ち退くよう判決を下した。

 さらに2000年11月、最高裁上告棄却によって全住民の敗訴が最終確定した。

 現在、ウトロ地区の土地所有権をめぐって、住民と別のところで裁判が行われている。いずれにせよ、住民らは「強制執行の恐怖」に怯えている。

 ウトロ地区には現在、約60世帯200人の同胞が生活している。半分以上が高齢者(65歳以上)のみの世帯であり、その半分が一人世帯だ。生活保護を受けている割合は、宇治市平均約1%に対して、ウトロは約20%。年金受給率にいたっては、宇治市90%以上に対してウトロは8%に満たない。

 戦後、住民らは住宅設備の改善を求めていたが、水道が敷かれたのは88年。今も、井戸水で暮らし汲み取り式の便所を利用している家がある。下水工事が進まず悪臭が漂う場所、少しの雨で浸水する場所もある。

 戦後60年間、苦しい生活を強いられ何ら補償も受けられない住民らにとっては、家を補修する資金もままならない。「移り住むことなど想像もできない」(住民)。

土地、無断で売却

住民と支援団体が設置した看板。裏は自衛隊駐屯地

 そもそも「ウトロ問題」は、日本の侵略戦争の産物として発生した問題だ。太平洋戦争を目前に控えた日本は、この地に飛行場建設を計画した。旧陸軍の要請を受けた業者と土地買収や設備工事を請け負った府の3者によって1940年4月、2000人の労働者を動員して工事が始まった。

 約100万坪(現在の陸上自衛隊大久保駐屯地)に飛行場、乗員養成所、航空機製造工場を建設するという大規模な工事に、多くの朝鮮人が動員された。41年頃には飯場が作られ、約1300人が暮らした。証言によれば、住居は骨組みで、古いトタン、木の皮を屋根にした。13、14時間の労働はあたりまえで、「ボロボロになるまで働かされた」。

 戦後は、同胞が集まり強固なコミュニティが形成され、在日朝鮮人運動の拠点になっていたこともあり、各地の在日同胞の「駆け込み寺」になっていたが、その分、GHQの乱暴な強制捜査の餌食にもされた。平等な社会保証も得られず、2重3重の苦しみを背負わされた。

 ウトロの所有権は戦後、日産車体に移された。住民らは70年、土地売却を求めたが、同社はこれを拒否し、87年に住民へのきちんとした説明もせず「自称住民」に売却。さらに西日本殖産に転売された。水道設置要請がようやく認められたのが87年ということを考慮すると、「土地転がし」「地上げ」という単語が関係者の頭をよぎっても、まったく不思議ではない。

 宇治市では大規模な開発、陸自駐屯地移転の噂があり、ウトロもその範囲に含まれている。「住民を追い出したい者と金儲けを目論む者の利害が一致したのだろう」とある関係者は推測する。

一つになって解決を

  総連京都・南山城支部や、89年に結成され住民の裁判や運動を支援してきた「地上げ反対! ウトロを守る会」は、ウトロ問題を人権問題としてとらえ、歴史的経緯を考慮したうえでの解決を訴えてきた。国連の社会権規約委員会は2001年、「強制退去」に対して懸念を表した。7月には国連人権委員会の報告官が視察を行った。 総連と民団は2月、共同で宇治市に対して解決を求める請願を行った。

 町内会、「守る会」を中心に土地の買い取りのための募金活動が行われている。南朝鮮でも問題が大きくクローズアップされ、「ウトロを救う希望の募金キャンペーン」が展開されており、開始からわずか2カ月で1000万円を越えた。まずは強制退去の危機から住民を解放し精神的苦痛を和らげつつ、歴史問題としての解決を訴えている。

  総連京都府本部の琴基都副委員長兼国際部長は「同胞住民たちの不安は頂点に達している。本部、支部は住民たちの困難と苦痛を目の当たりにし、ともに歩んできた。これからも住民と一つになって、可能なあらゆる手段と方法を駆使し、住民を守り、解決を訴えていきたい」と語る。

同胞住民たちの声

[朝鮮新報 2005.8.30]