同胞住民たちの声 |
「なぜこんなひどい目に」
夫が飛行場建設工事に従事したという文光子さん(85歳、女性同盟南山城支部顧問)は、1943年にウトロに来た。 六畳一間に子ども6人と足を合わせながら寝て、配給されるわずかな小麦粉や豆を分け合って食べたという。夫は一日13、14時間働かされ、終戦間近には労賃もほとんどもらえなかった。 戦後、飛行場はGHQの基地になった。米軍の兵士に「ここから出て行け」と銃で脅された。撃たれた人もいたという。日本政府と企業は身分を保証せず、働き口もなかった。 「来たくて来た訳でもないのに、今となっては行くあてもない。60年以上も住んできた場所だからこれからも住む」と文さんは語る。 父が飛行場建設工事に従事したという姜春子さん(66)は5歳の時、大阪から疎開して、母と3人の兄弟とウトロにやってきた。 終戦後はほったらかされて狭い長屋にそのまま住んだ。父は百姓をして、自分も内職や畑仕事で家庭を支えた。ウリハッキョ(現総連南山城支部会館)にも通っていたが、閉鎖させられた。学校を返してほしいと先生や生徒たちが泣いていた光景を覚えているという。 「何世代も経っているのに権利が保証されていない。なぜ朝鮮人がこんなひどい目に合うのか」と憤りを表す姜さんは、「真面目でやさしかった主人が一生懸命働いて建ててくれた家。どんなことがあっても手放したくない」と訴えている。 「行くあてない」 7月には国連人権委員会の特別報告官がウトロ地区を訪問。住民らに聞き取りを行い、地区内を視察した。特別報告官は劣悪な生活環境を目の当たりにし、「日本のような近代的な国で(ウトロ問題が)起きているのが残念」と首を横に振り声を詰まらせていた。さらに「ここには町内の団結がある」としながら、コミュニティの強固さに関心を示した。 ウトロには、戦後生きる術を求めてウトロにやってきた同胞もいる。生活は苦しく差別はきついが、心温かい同胞がいたことが「駆け込み寺」のゆえんだ。 「みんなで力を合わせて最後までたたかう」−住民たちの結束した意志が「強制退去反対!」と町内に掲げられた看板からうかがえる。 総連南山城支部の李武律副委員長は「ウトロ問題は日本の植民地政策によって発生した歴史的問題だ。住民たちは、光復前は飛行場建設などで働かされ、光復後60年間もいじめを受けてきた。絶対に許せない」と語る。 国連の社会権規約委員会は「強制退去の違法性」について懸念を表明。宇治市などにもたびたび要請したが、日本社会ではほとんど認識されていないという。 李副委員長は「これからも日本政府が歴史的な責任を果たすよう訴えていきたい。同胞たちと生死運命をともにし、先頭に立って同胞たちを守っていく。それが民族団体としての総連の使命だ」と語る。 [朝鮮新報 2005.8.30] |