朝鮮の食を科学する(8)
焼肉文化を日本に伝えた在日
ホルモンとは独、英語の「精力」、「ほうるもん」に非ず
焼肉は日本の外食産業の有望業種である。
いま狂牛病の影響できびしい対応に迫られてはいるが、いずれ立ちなおることだろう。 元は朝鮮の宮廷料理 この焼肉文化を日本に広めたのは在日である。日本の第2次世界大戦の敗戦による戦後の混乱期、食糧難、物資難の中で在日同胞がたくましい生活力を発揮して食べもの店にて牛の内蔵類を料理したのが始まりとみてよい。戦前に朝鮮料理を業とした店が全くなかったわけではない。一部にはあったが、それが戦後につながったものはないのである。 昭和30(55年)年頃を境目として焼肉店は急激に増え、在日同胞の主要な営業種になっていく。 肉を金網などに乗せ、直火で焼く方法が焼肉法であり、この方法は日本にはなく、朝鮮に古くからあったものである。 焼肉をプルコギと呼ぶ。プルは火、コギは肉だが、このプルコギという語は新しい語でノビアニというのが正式で、朝鮮の宮廷料理でもあった。 ノビアニは肉類を味つけし、台所の金網の上で焼き上げそれを皿に盛りつけて、食卓に出すものであった。こんにちのようにコンロを囲んで自分で焼くという方法などはなかった。 1945年つまり朝鮮が日帝から解放される以前の辞典類にプルコギという語はない。 ノビアニはある。 朝鮮戦争の始まった50年以降、社会の混乱下で、堀立小屋、屋台のようなところで、コンロを囲んで自分で焼いて食べる方法が何となく定着し、それをプルコギと呼ぶようになったと「韓国食品史研究」(新光出版社、ソウル 74年)の著者尹瑞石博士から直接に聞いている。 在日の家庭での焼き方は冠婚葬祭用に皿に盛りつけるのはノビアニ形式であった。しかし、内蔵類の場合はそれがむずかしいので、食べる人が直接焼く形式ばらない簡単法になりやすかった。この方法が焼肉店で提供する方法につながったとみてよい。 同胞の生活の中から生まれ、育ち、新しい知恵が積み重ねられた焼肉産業は、日本の外食産業の中で目立つ存在である。 経済不況下で何か食べもの業をしようかと考える人が思いつくのは、イタリア料理店か焼肉店だといわれるくらい関心が高いのである。 この料理法がなぜ在日の生活文化にはあって日本のそれにはなかったのか。それは食文化の歴史がちがうのである。 直火の焼き方が広く定着 朝鮮、日本共に仏教が伝来するまでは食肉は自由であった。朝鮮の古代三国、高句麗、百済、新羅で仏教が国教となり、殺生禁止、肉食禁止となるのは6世紀半ばである。日本はこれより遅れて7世紀半ばに禁止となる。朝鮮は13世紀の高句麗時代に蒙古の支配下に入って肉食が復活し、さらに15世紀の朝鮮王朝時代、儒教国家となるに至って、肉食は完全自由となり、ノビアニ料理法が発達する。日本は明治の初めごろまでまがりなりにも肉食禁止時代が続いたのである。明治の初めにヨーロッパ文明を取り入れて、肉食奨励をして「すきやき」などの料理法が生まれる。しかし、直火での焼き方はなかった。 この直火法を生活文化とした在日の経済活動の結果として、「焼肉経済文化」が成立したのである。 「ホルモン」料理のマチガイを取り上げておこう。関西で内蔵肉のホルモンとは、「ほうるもん」つまり捨てるものから来たのだと金時鐘氏が「差別―その根元を問う」(朝日新聞社、1977年)対談集で……朝鮮人が言った朝鮮人語なんですよ……としたことから来ている。 これはマチガイである。ホルモンとはドイツ語、英語で、精力を連想させることでつけられたものである。内臓肉を食べれば健康に良いとしたのである。41年大阪難波の「北極星」の経営者、北橋茂雄氏が「ホルモン煮」という商標登録をとっている。 さらに中国の戦場に出兵した日本人から大阪の女性料理専門家に出されたハガキに……ホルモン料理のつくり方を教えて下さい……というのもある。これも41年11月の話で、このハガキ資料は筆者が持っている。 すでに戦前から大阪にあったホルモンという語が、戦後に広まるのに焼肉と結びついたわけである。決して「ほうるもん」ではない。 食生活の知恵を歪めるようなマチガイ説を一人歩きさせてはならない。 |