それぞれの四季

私の家族

李幸子


 私の家族は子供3人の5人家族。結婚したのは、1960年の帰国運動真っ盛りの頃だった。青年たちは大会に参加して、オンヘヤ・ヘヘヘェ・オンへヤと歌を歌い、踊ったものだった。その頃、夫と出会って、こんにちまで歩いてきた。

 思い出といえば、全部で10回くらい引っ越しして、子供たちがまだ小さい時名古屋で生活したことである。九州から移り住んだ私たちにとって、名古屋での夏の酷暑と冬の厳しい寒さはこたえた。しかし、人情に熱い土地柄で、朝起きると玄関の前に朝採れたばかりの新鮮な野菜が度々置かれていて、どれほど嬉しかったことか。

 子供たちが半田の第10初級学校に通うのに、冬は風雪が続く気候で、学校のバスが1、2時間くらいは平気で遅れてきた。子供たちの待機場所は田んぼの土手の吹きさらしで、民家も雨宿りの場所も何もないところだった。息子を寒防でおぶって、娘2人を寒防の両脇に入れてバスが来るのを1時間でも2時間でも待つ。寒そうにしている私たちを見て、知らない人が車のクラクションを鳴らしどこへ行くの? と声をかけてくれ、子供たちを乗せてくれた。今でもあの時のことを思い出して、感謝の気持ちでいっぱいになる。

 その子供たちも今では長女は京都に嫁ぎ、4人の子のオモニとなり、岡山に嫁いだ次女も3人の子のオモニとなった。長男は朝大卒業後、東京で就職し、2児の父となった。

 再び夫婦2人となった私たちは、夫は魚釣りとパソコンに熱中し、私は習字や踊りの趣味を持ち、孫の成長に目を細めながら同胞社会で楽しく暮らしている。(主婦)

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