東アジア史の視点から-1-
キトラ古墳と四神
朱雀のダイナミズム、源流は高句麗古墳壁画
全浩天
7世紀末のキトラ古墳の東西南北の壁には四神の絵が大きく描かれている。四神とは東西南北の方角を守る神獣である。東に青龍、西に白虎、南に朱雀(すざく)、北に玄武(げんぶ)が配置されている。玄武とは亀に蛇がからみついている形姿である。これらは古代の中国や朝鮮の人々が信仰した聖なる獣であり、守護神である。高句麗の王侯貴族は死後も魂は生きるものと信じ、墓室に邪悪なものが進入しないように四方の壁に四神を描かせたのであった。
キトラ古墳の白虎は異例であった。壁画西壁に描かれる白虎は南に向かうべきなのに、キトラの白虎は北の玄武に向かって疾走している。このためキトラの白虎は朝鮮、中国にない日本独自のものと主張された。しかし、高句麗壁画古墳である真坡里1号墳の白虎は北に向かって疾走していることが明らかにされ、この主張は消滅された。ところが、キトラの壁画は白虎が北を向き、玄武の亀の頭が東を向き、東の青龍が南向きなので「時計回り」であると主張され、日本独自のものと論じられた。しかし、玄武の絵は亀にからみついた蛇が西を向いて亀に向き合っているだけでなく、玄武全体が西に向かって進んでいる。北に向かう白虎と西に向かう玄武はぶつかるのであるから「時計回り」説も成立しない。
キトラ古墳の天井に描かれた天文図は多くの人々を驚嘆させた。天空の28宿の星座だけではなく外規・赤道、黄道・内規という軌道まで描いた天文図は極めて高い水準と精密さをもった星図であった。このような優れた7世紀末の天文図は、現存するものとしては最古の星図である。 ところで、キトラ古墳の天文図の作成に影響を与えたり、手本になる星図があったのであろうか。関西大学の橋本敬三博士の研究によれば668年、唐軍によって平壌城が落城した時、高句麗の石刻天文図は失われたが、その石刻天文図の拓本が2枚あった。そのうちの1枚は李王朝の1395年に製作された天象列次分野之図の手本となり、他の1枚は日本の飛鳥に渡ってキトラ古墳の天文図となったと推定されている。つとに知られているとおり科学史の権威であるケンブリッジ大学のニーダム博士たちは精密な天象列次分野之図は高句麗時代の石刻天文図をもとにして製作されたことを証明している。 キトラ古墳に対する第3次調査は壁画や天文図を鮮明に映しだしたが、とりわけ注目され、大いに話題となったのが南壁に描かれたみずみずしい朱色の朱雀であった。この朱雀の絵についてさまざまに論議されてきた。中でも目立ったのは、この朱雀は「今にも飛び立つ姿を描いた」として高句麗壁画にはないキトラ古墳独自のものであるという主張である。この独自説の根拠は傑作の中の傑作とされる江西中墓の朱雀の絵の静止の姿であり、2本の足を揃えて立っているからであるという。江西大墓も同じであると断定している。これらは誤った見解であり、事実ではない。 キトラの朱雀は疾走しながら今まさに飛びたたんとしている。平壌市郊外の真坡里1号墳の南壁入り口の両側に描かれた朱雀は疾走しながら今まさに飛びたたんとしている。問題の江西中墓の朱雀は足を揃えて静かに止まっているのではない。助走を終えて飛び立つ動と静の瞬間のダイナミズムをとらえて描いたのである。それを証してくれるのは江西大墓の朱雀である。この朱雀は大地から飛び立って空高く飛翔している。脚下には江西の山々が遥かに見える。羽ばたき、飛び立とうと疾走し、飛び上がり、空高く飛翔する高句麗古墳壁画の朱雀図の流れの中にキトラ朱雀を位置付けなければならない。 今年1月に発見された東壁の青龍の下方に描かれた絵は「獣頭人身像」、つまり身体が人間であり、頭が獣の絵であった。顔は寅であり、着ているのは武人の衣装であった。顔は寅、身体は人間として造られた12支(ね・うし・とらなど12種)像のひとつと見られる。寅のほかに12支らしい絵が描かれていたという。12支像は7世紀の後期新羅の都・慶州の王陵、王陵級の墳墓から出現して8世紀前半までに発達した。このような12支像が古墳壁画に描かれたことは類例がなく極めて特徴的であるが、朝鮮半島との関係の深さをよく示している。(歴史学者) |