相模路・朝鮮文化を訪ねる旅
庶民の暮らしに鮮やかな足跡
古代史から現代を検証
最高気温34度。ジリジリと焼けるような暑さの中で21日、「相模路の朝鮮文化を訪ねる旅」が同実行委員会の主催(協賛=日朝友好資料センター、日朝観光交流センター)で行われた。
高麗王若光上陸を偲ぶ大磯高来神社の御船祭りをメインに、歴史研究者・朴春日さんを講師に迎えて行われた歴史の旅は、神奈川県大磯町の高来神社と御船祭り、百済の名僧行基ゆかりの王福寺、横浜の大塚・歳勝土遺跡をめぐるコースで進められた。参加者は、教師、会社員、主婦など46人。 k k 朝8時45分。東京・新宿を出発したバスは、道中朴さんの講義を交えながら大磯へと向かった。 朴さんは「浅草・三社祭を見てもわかるように、昔、御輿をかつぐときの掛け声は『わっしょい、わっしょい』だった。その語源が朝鮮語の『ワッソ(来たぞ)』。しかし、今ではそれが『せいや、せいや』に変わってしまった」と言いながら、歴史の中で風化され、意図的に隠されつつある日本と朝鮮との関わりについて語った。大磯の御船祭りも元は若光を偲ぶもので猟師の歌には「高麗の〜」という節があるが、いずれそれもなくなってしまうのではないかと朴さんは危惧する。 k k 高麗山にある高来神社は、7世紀後半、相模国の大磯の浜に上陸した高麗若光を祭るものだ。伝承によれば高句麗の王族・高麗若光一行は、高麗山城を中心に勢力を拡大し、伊豆・箱根地方へと進出していったという。当初、高麗山には若光を氏神とする高麗神社と一族の氏寺・高麗寺が建てられたが、明治政府の神仏分離政策によって高麗寺は廃寺、神社名は「高来(たかく)」と変えられた。1897年(明治30年)のことである。朴さんによると数年前まで扁額には「高麗」とあったが、今はもう「高来」に変わっていた。若光の伝承を記念して2年に1度行われる御船祭りには、2隻の飾り船(山車)が登場し、上には若光の像が悠然と立つのだが、この日はあいにく道案内の神とされる「猿田彦之神」の姿があった。若光の像は今では12年に1度、お目見えするということだ。 k k 天平時代(729―49)、行基大僧正が開創したという王福寺で、行基の作と伝えられる木造薬師如来像(国の重要文化財に指定)を拝み、横浜市にある大塚・歳勝土遺跡を参観した一行は、弥生文化の担い手であった朝鮮移住民集団の足跡にも触れた。東京・町田市から参加した朴貞花さんは「参加するたびに違った感慨を受けます。先生のお話に『朝鮮隠し』のことがありましたが、今日御船祭りを観ていた地元の人に聞いてみたら、皆さん『高来』ではなく『高麗神社』と話していました。庶民の中では受け継がれているのですね」と話し、千葉県の高校教員、山辺健夫さんは「千葉県朝鮮人強制連行真相調査に関わった教え子たちと参加しましたが、日本が歴史の過ちを清算し、朝鮮との近現代史の問題を解決しなければ、先祖たちの文化交流などもきちんとした形で知られないのではないでしょうか」と話した。今回の旅は古代史から朝鮮と日本の関係を学ぶものであったが、参加者たちはそこから両国の「現代史」を見つめなおしたようだった。 (金潤順記者) |