大谷森繁博士古稀記念「朝鮮文学論叢」に寄せて
民族文学の理解に一助
金学烈
ながく朝鮮学会副会長を任じられた大谷森繁博士の古稀を記念しての「朝鮮文学論叢」(白帝社)が、このほど出版された。
大谷博士は帰国事業協議のさい、日本赤十字社の通訳として、大同江のほとりにたたずむ会議所に出向かれたと聞いている。また氏の兄さんは、日本敗戦のまもない頃、金日成主席の通訳をされたこともあるとのこと。 博士の弟子である岡山善一郎・天理大学教授が、事実上編集を受けもたれたが、じつは氏は昨年の夏、共和国の社会科学院の招待のもと、私自身が案内役となり平壌を訪れた。氏は「前書き」で、「日本における朝鮮文学者が一堂に会して論文集を出すことは意義があり、次に記念すべき方の論文集、または別の形での朝鮮文学の論文集のための前例となることを願っている」と書いている。 いわば、この論文集は朝鮮学会の第一線の学者たちが朝鮮文学における最先端の問題点を追求した貴重な文献であり、朝鮮民族の文化をより深く理解するうえで良き参考となる書であることには間違いない。少々レベルが高く、むつかしいところもあるだろうけれども。 i i この「文学論叢」は3つの部類に分けられている。 第1に「古典篇」、第2に「現代篇」、第3に「言語・風俗篇」。 「古典篇」には、「朝鮮と日本における明・清小説受容の様相と特色」(大谷森繁)、「郷歌と天人相関思想」(岡山善一郎)など9編が入っている。 「言語・風俗篇」には、「朝鮮における詩と絵画―朝鮮・室町文化の接点―」(李元恵)、「中国朝鮮族に於ける言語文化の変遷」(金敬雄)など4編(50音順)がある。 ここでは「現代篇」に限って、簡単にその特徴について触れるだけに止めたい。 「沈連洙の詩をめぐって」(大村益夫)は、今までまったく無名の文学者であった沈連洙(1918―45)が「異国で息を引き取った李陸史や尹東柱とともに抗日民族詩人の隊列にそびえたつ」詩人であることが発掘され、2000年の夏、朝鮮日報(8月1日付)、ハンギョレ新聞(8月15日付)などに紹介されたが、その詩人についての研究状況をのべたものである。 沈連洙は江陵市に生まれたが、幼く祖父母、父母らとともにロシア・ウラジオストックに渡り、のちに中国・龍井で暮らすようになったという。龍井・東興中学時に祖国朝鮮へ修学旅行をしたが、この頃多くの詩作を発表。41年渡日、43年日本大学芸術科学園卒業後、龍井に帰り、小学教師として勤務したが、45年8月の混乱期の折、偽満軍に殺されたとのことである。 「尹東柱の童謡・童詩について」(熊木勉)では、尹東柱は、童謡や童詩あるいは一般詩というジャンルに関わらず、基本的には「童心」の詩人であったと述べている。 「廉想渉〈万歳前〉の人物造型と人間認識」(白川豊)では、作者・廉想渉の日本人登場人物と朝鮮人登場人物に対する人物形象(造型)の特徴について究めながら、主人公・李寅華(私)の日本人認識、朝鮮人認識、さらには一般的な人間認識についてのべている。主人公は民族的視点からする観察眼よりも、むしろ無知かどうか、あるいは傲慢か否かというような、生理的な嫌悪感と過剰な自意識による人間観を強く持っているという論である。 ちなみに廉想渉は、共和国では従来ブルジョア自然主義の作家であるとして、文学史的に否定的に評価されてきたが、最近「現代朝鮮文学選集・16」(98年)に作品が取りあげられるなど、民族性を基準に高く評価され出しはじめた。 i i 「李箕永の長編『処女地』論」(芹川哲世)は、作家の1943―44年作と見られる長編小説「処女地」を論じたものである。 共和国の文献では、解放前李箕永作の長編は「故郷」「人間修業」「春」以外のものは、本人の意向により、日帝の国策に沿った振りをしての原稿料かせぎの駄作であり、文学作品として認めていない。強要された「満州取材」も金日成将軍指導下の抗日パルチザン活動情報を得たい一心で利用したものだと、李箕永は述懐していたという。 ともあれ活字となった歴史的事実は、無にする訳にはいかない。その問題の作を追った注目すべき研究だというべきである。 「獄中の豪傑たち」(波田野節子)では研究論文の副題どおり洪命憙と李光洙が東京で共有した世界にスポットをあてている。 波田野氏は、昨年天理大学で開かれた朝鮮学会での洪命憙作長編「林巨正」の緻密な研究で驚かされた、熱心な研究者である。フランス語も得意であるという彼女は、いちはやく平壌旅行もしてくるなど、行動派として知られている。祖国訪問の際私は、新潟在住の氏から祖国の作家あての「越乃寒梅」をよく頂戴したものである。 私の「焔群社とパスキュラの結成」では、朝鮮プロレタリア芸術同盟(カップ・KAPF、25年8月結成)の前身である焔群社とパスキュラ(PASKYULA)は、従来文学史では各々22年と23年結成と見るのが定説であったものを資料的に反証し、各々23年と24年結成と見るのが妥当であるとのべたものである。 紙数の関係上、ちくいちつまびらかに紹介することはできないが、ぜひ一読をこいたいものである。(朝鮮大学校講師) |