ウリ民族の姓氏−その由来と現在(67)
高麗初期に門閥形成の禹氏
種類と由来(54)
朴春日
禹氏は著姓の後半にあって、35の本貫を持つ。
主な本貫と始祖は、丹陽・禹玄、栄川・禹傳(ウ・ジョン)、剛州・禹允成、木川・禹仲祥で、みな高麗の中央・地方の官吏と伝えられる。 禹氏は高麗初期に門閥を形成したが、なかでも丹陽禹氏が広く知られた。とくに宰相・禹仁烈は外敵撃退で数々の戦功を立て、禹ジェも一等功臣となった。また禹吉生も勇名を馳せたが、息子の禹玄宝は李成桂の王権さん奪後、流配されている。 禹倬は高麗末の儒学者で、わが国における朱子学の始祖といわれ、詩文もよくした。 李朝に入ると、禹玄宝の後裔たちが活躍した。彼らはみな武官であったが、わけても禹貢は北方警備から南方警備の重責を担い、数々の功績を残した。 また禹仁烈の後孫・禹性傳は、大学者・李退溪と李栗谷から学ぶ俊才であったが、壬辰倭乱が起こると直ちに義兵隊を組織し、自分の号・秋淵から「秋義軍」と名付けて活躍。のちに大司成(成均館館長)となった。 さらに、禹孟善は兵曹判書となり、のちに一等功臣を授けられた。そして禹夏亭は英宗時代(1725〜76年)、捕盗大将に任じられて盗賊を根絶し、人々から「神明」と讃えられたほどである。 つぎに方氏である。 方氏は稀姓の上位にあって、117の本貫を数える。代表的な本貫と始祖は、温陽・方雲、尚州・方右賢、軍威(慶尚道)・方迪(パン・ジョク)、新昌・方宗擧で、みな高麗の官吏である。 記録に見える人物は方甫で、彼は1271年、蒙古(元)と野合した高麗統治層に反対し、戦いの炎を上げた三別抄軍に参加した。 また方臣祐(尚州)は蒙古へ遣わされ、彼ら支配層の高麗に対する姿勢を正すのに尽力し、方干宣は平壌府尹(市長格)を努めている。 李朝時代には、兵曹参判を務めた方有寧(軍威)、そして壬辰倭乱のとき、李舜臣将軍の先鋒将となり、露梁津海戦で獅子奮迅の活躍をした方徳龍が知られている。 彼は李舜臣将軍が傷ついて倒れるや、「もはや恐れるものなし!」と叫んで勇猛な戦いをくり広げ、壮烈な最期を遂げた。のちに刑曹参議を追贈されている。 温陽方氏の方羲縺iフィヨン)は、かなりの高官職にあったが、彼の評判をより高くしたのは、その職責よりも隷書によって、という変わり種である。 彼は古今東西の隷書を集め、5巻にまとめたが、当時の書芸家たちは、この書物を、それこそ宝物のごとく大切にしたという。 李朝末の名歌手・方萬春は、豊かな声量で「沈清伝」などを歌い、大衆的な人気を博した。 つぎは石氏である。 (パク・チュンイル、歴史評論家) |