「生きて、愛して、闘って」に寄せて〈上〉

解放に向けて歩んだたくましさ掘り起こす

山田昭次


 日本の朝鮮支配、それからの解放直後の朝鮮の分断――この20世紀の激動と苦難を生き抜いた在日朝鮮人からの聞き書き集「生きて、愛して、闘って―在日朝鮮人一世の物語」(朝鮮新報連載時のタイトルは「語り継ごう20世紀の物語」。以下「物語」と略称)は、聞き書き対象者総数21人中、女性が19人もしめるという特徴を持っている。特徴はそれだけではない。「物語」は在日朝鮮人女性が民族差別と性的差別の二重の差別の被害者である反面、解放後の民族運動の面でたくましい働きをしてきたことを明らかにしている。これまで明らかにされてこなかった後者の面に照明をあてたところに「物語」の最大の特徴があろう。

 在日朝鮮人女性に対する認識の歴史を回顧してみよう。在日朝鮮人女性に関する最初の著作は、日本人女性の会であるむくげの会編「身世打鈴―在日朝鮮女性―」(東都書房、1972年)である。しかし、この聞き書きの記録者たちは在日朝鮮人が受けた民族差別には関心を向けたが、性的差別を受ける在日朝鮮人女性の独自な社会的位置と役割には関心を示していない。これは、当時は日本人が在日朝鮮人に対して関心がさしてなかった時期だったので、在日朝鮮人男性と共に在日朝鮮人女性が同じく受けている民族差別を日本人に理解させることが何より必要な課題だった歴史的段階の反映であろう。

 「ひと」1987年7月号に蘇福姫がハンセン病患者だった在日朝鮮人女性朴守連からの聞き書きを続けてきた「三重の差別を背負わされて生きる」を掲載した。これはハンセン病患者差別と民族差別に加えて性的差別も受ける在日朝鮮人女性患者の独自な位置を明らかにしたもので、新しい視角からの作品の先駆をなすものだった。

 この視角をより鋭く豊かにしたのは、平林久枝「わたしを呼ぶ朝鮮」(社会評論社、1991年)だった。平林は長年在日朝鮮人からの聞き書きを続けてきた結果得られた認識を集約して「在日朝鮮女性を根本的に痛めつけたのは日本の支配であり、先祖代々の生活基盤も固有の文化も、日本によって破壊されたのだが、そこにはまた、男性への女性の従属が日本より、いっそうきびしい現実もあった」と本書に記した(86―87頁)。平林は舞踊家崔承喜が民族差別、階級的差別、性的差別など朝鮮人差別をとりまく何重もの差別に立ち向かった跡もたどった(107―131頁)。また、平林は現在の在日朝鮮人女性中には、経済的には自立していながらも、男子の前で自己を卑下している女性もいることを挙げて、「経済的な実力が獲得できても、ただちにそれが精神的自立につながらない」と在日朝鮮人女性の解放を今日も妨げている精神的束縛の強さも指摘した(165頁)。

 「百万人の身世打鈴」編集委員会編「百万人の身世打鈴―朝鮮人強制連行・強制労働の恨(ハン)―」(東方出版、1999年)中の日本や母国の朝鮮人女性からの聞き書きの解説で、菅沼紀子は朝鮮人女性が夫に従属させられながらも、そこから自立してきたこと、しかも彼女たちのつらい話には、他面「強く、底抜けに明るく希望に満ちた世界が示される」ことを指摘した(283頁)。

 「物語」もこうした在日朝鮮人女性に対する認識の深まりの歩みを継承・発展させている。つまり、「物語」は苦難が多かった20世紀の歴史の中で歩んだ在日朝鮮人、とくに民族差別、階級差別に加えてさらに性的差別の重荷を背負った女性たちが、まさにそのゆえに解放に向けて歩んだそのたくましさを掘り起こした。そこには次代の在日朝鮮人がこの遺産を埋没させずに継承、発展させて欲しいという聞き書きの記録者の願いが込められている。

 「物語」に登場する最長老女性は1904年生まれの金吉徳である。1910年代生まれの女性は5人、1920年代生まれの女性は9人、1930年代生まれの女性は4人である。日本生まれの鄭末順さん、朴周達さんを除き、その他の15人はすべて朝鮮に生まれた。このうち渡日年の不明の女性が2名いるが、その他の15人の女性の渡日年は1920年代末期から1940年代初頭にわたっている。彼女たちは幼少期もしくは青年期までは朝鮮で過ごした。

 鄭出水は「当時、女は人間ではなかった。学校にいかせてもらえず、文字すら学べなかった」という。金吉徳は書堂に通いたかったが、「女に学問はいらない」という祖母の反対で願いは実現されなかった。金順煕、権福善、韓又仙は戦後になって成人学校で初めて文字を習った。

 「物語」に登場する女性中にも幼少期に学校に通えた女性も5人いるが、しかし、全体の中では少数派で、当時では初等教育機関である普通学校に上げてもらえなかった少女が圧倒的に多かった。1935年現在で朝鮮の総男児就学率は40.3%、総女児就学率はわずかに10.8%ある。しかも、邑面(町村)の女児就学率は府(市)のそれよりずっと低く9.1%であって、ほとんどの女児は就学していない。

 農村の女性の結婚の大部分は本人の意志は反映されず、とくに貧農の女性は15歳未満でなにがしかのお金か米と引き換えに強制的に結婚させられる例が多かった(韓国女性研究会女性史分科「韓国女性史」図書出版プルピィツ、1992年、89項)。在日朝鮮人の女性の結婚も本人の意志とは無関係に行われたものが多いだろう。こうして結婚した相手が乱暴な男性だった場合、妻は悲惨だった。ある在日朝鮮人女性はハンセン病になって療養所に入所することになって、はじめて夫と離婚することができた。どんな夫であろうと妻はこれに仕えなければならないという儒教的倫理に縛られて不可能だった夫との離婚を可能にしてくれたのは、人々が偏見のゆえにはなはだしく忌み嫌ったハンセン病だったのである。このように夫に従属した妻の日常生活は容易なものでなかったことは「物語」では姜福心が語っている。(立教大学名誉教授)

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