取材ノート

見えなかったもの


 5月上旬の在日同胞福祉連絡会祖国訪問団に同行し、障害を抱えた人を介助する初めての体験をした。

 「見えないことが多い」ことに気付かされた貴重な日々だった。

 平壌でサーカスを観覧した時のこと。5歳の時、眼球をがんに侵され視力を失った梁進成さん(36)の隣に座った記者は、手品に空中ブランコと次々と続く華やかなショーの実況中継をすることになった。

 「花は何色?」「どっちの手が動いてる?」。矢つぎ早の質問に記者の「解説」はとても追いつかない。

 テレビやラジオのスポーツ解説者のように「見えない」ハンディを埋めるのがボランティアの役割。梁さんは「失敗を恐れず、完璧を目指さないこと。そして長く続けること」と「ボランティアの心得」を助言してくれたが、力不足を痛感する毎日だった。

 一方、同胞障害者たちが日本で口にしたことのないウリマルを発し、あちらこちらで聞いたウリノレ(朝鮮の歌)を口ずさむ姿、また同じ障害を持った朝鮮の人たちと交流する光景に触れ、何度となく心が洗われた。

 養護学校や盲学校に通い民族教育を受けられない同胞障害者にとって「同胞」や「民族」、「祖国」を実感する機会は少ない。

 祖国訪問の機会しかり。介助する人がいて初めて訪問が可能だという、当事者にとって当たり前の事実を目の当たりにした時、障害を抱えた彼らにとって、今回の訪問は初めて訪れたチャンスだと気付いた。

 同胞障害者たちは、祖国に足を踏み入れたその瞬間から、研ぎ澄まされた五感で自分のルーツを必死に探し求めていたように思う。

 このたび祖国を訪れ、「朝鮮人として生きたい」という気持ちがわき出てきたという梁さん。数年前に購入した点字の朝鮮語教材を引き出し、ウリマルの勉強を再開したという。(慧)

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