ウリ民族の姓氏−その由来と現在(65)
李将軍の下で戦った魯春根
種類と由来(52)
朴春日
辛氏は高麗中期に、1つの門閥を形成したと見られ、時を経て51の本貫を擁し、著姓の中程に位置するようになった。
代表的な本貫と始祖は、霊山(慶尚道)・辛鏡、寧越・辛君才、高霊・辛靖で、霊山辛氏からは辛憙、辛蘭、辛佐宣を始祖とする枝族が生まれた。始祖はみな高麗の文・武臣と伝えられる。 まず霊山辛氏では、第28代・忠恵王の重臣・辛裔がいるが、特異な存在は高麗末の僧・辛旽(シン・トン)であろう。 彼は寺の婢女の子であったが、その才知を買われて第31代・恭愍王の「師傳」となり、国政を任された。そして大貴族が奪った土地や奴婢を返還させたりしたが、反対勢力に専横と不正を攻撃され、刑場の露と消えた。 見逃せないのは、李成桂一派が高麗王朝を裏切って恭愍王を暗殺し、その子孫−第32代・禑王と第33代・昌王を「辛旽の子孫」だとして殺害した事実だ。 こうして彼らは「高麗史」を改ざんし、「辛偶王」と「辛昌王」を登場させ、王権さん奪を正当化したのである。 李朝時代、辛有定は倭賊撃退で勇名をはせ、明との折衝でも国の尊厳を貫き通した。また辛碩とその孫・辛永禧は要職を歴任し、富豪・辛均は囲碁の名人で、辛礎は壬辰倭乱時の勲功大であった。 寧越辛氏で、地方・中央の要職で人望のあった辛應時と、その子で「名書記官」と讃えられた辛慶晋が知られている。 つぎに魯氏である。 魯氏は稀姓の後半にあって、本貫は64。主な本貫と始祖は、咸豊(全羅道)・魯ル(ロ・ソク)、江華・魯變(ビョン)で、高麗の文臣と李朝の武臣。ほかに開城・楊州・光州の魯氏が知られている。 また咸豊魯氏からは、高麗末の中央の文臣(正3品)・魯舒、同じく魯仁厚と、地方の戸長・魯龍臣を始祖とする一族が生まれている。 壬辰倭乱のときは、江華魯氏の武将・魯春根と、咸豊魯氏の武将・魯認が勇名をはせた。 とくに魯春根は出陣のとき、身重の妻に「私が生きて帰るとは思うな。もし男の子が生まれて成長したら、私の魂を呼んで葬儀を営んでくれれば、それ以上望むことはない」と言い残した。 そして彼は、名将・李舜臣将軍の指揮のもと、有名な唐浦海戦と高下島海戦で勇敢に戦い、大きな戦果を上げた。しかし最後の戦いで矢がつきると、敵将に組みついて海へ飛び込んだのである。のちに彼は、兵曹参判(次官)職を追贈された。 魯認は權慄将軍にしたがい、幸州城と宜寧戦闘の勝利に大きく貢献している。 つぎは朱氏と廉氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家) |